ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第三節昭和戦前期の教育昭和初期の小学校昭和時代は不況の中から始まヮたが、は各小学校においても大きな課題があった。}の時期にめは、児童数の増加により、校舎の増築や運動場の拡大など、施設の拡充をする必要であった。二つめは、恐慌の中で柳条湖事件(満州事変)を契機に開始された大陸侵略政策ゃ、五・一五事件以後急速に進行した国家主義的な政策が、教育現場へ大きな影響を及ぼし、学校教育のあり方に大きな変化をもたらしたことであった。また恐慌の波は農村を直撃し、人びとの生活を窮乏の淵へ陥れ、小学校へ通う児童の生活基盤を脅かし、同時に教員を生活苦に陥れたことであった。昭和時代に入ってから、昭和十二年までの「いはらき」新聞の記事をみると、小学校の施設拡充に関する記事が数多く載せられている。まず潮来町においては、昭和二年十月に潮来尋常高等小学校の校舎が増築さついで昭和六年十月には校庭が八反歩拡張されている。延方尋常高等小学校においては、昭和五年から校舎の改築が開始され、れている。昭和六年三月には竣工している。延方村では青年団の労力奉仕などが積極的に行われた。昭和九年八月には、卒業生が記念品として校旗とサイ不況と戦争レンを寄付している。しかし延方村では、それでも校舎の不足を生じたため、昭和十一年には増築を実施した。大生原村においても、校舎の増築と校庭の拡張が課題となり、村内で第3章協議した結果、奉安殿の建設とあわせて校庭の拡張をすることとなり、昭和五年七月に完成している。校舎に関しては、昭和九年から計画が具体化し、昭和十年に県へ増築を申請した後、昭和十一年九月に三つの教室を持つ校舎を完成させている。二つあった小学校を合併する議論が昭和五年に盛り上がった。津知村では、児童の通学の便を考えて二つの小学校を設置津知村においては、していたが、村民の融和、教育の効果、財政的な事情などを考えると一てコ校に統一したほうが好都合であるというのが、その理由であった。の議論は明治時代以来続いてきたものであった。校舎は辻にある小学校を拡充して使用することを想定していた。しかし通学の不便さを考えて、築地地区の人々は反対した。昭和五年五月八日の「いはらき」新聞は、「津知村の両校合併行き悩む」という見出しで次のように報じている。行方郡津知村尋常校と尋高校との合併及尋高校の校舎増築問題に就いては榊原村長が上字と下字との議員学務委員聞の調停に尽力しつつあるが、上字は飽くまで反対の意向を示し、即ち合併所が増築するなら尋常校にも増築すぺしという反対議論がある始末であるから、この二問題は水泡に帰するか、強いて下字が多数議員なので是れを断行するとせば上下との争いは免れぬ状態にあり榊原村長は極力調停の歩を進めていると昭和五年四月から十二月にかけて村内を沸かせたこの議論は、結局村内の合意を得ることができなくなり、周年十二月になって二つの小学校は県に対して校舎増築の申請を出すことになった。そして昭和六年七月になって両校の校舎の増築が完成した。しかしこの増築では不充分であったため、昭和九年になると増築の計画が具体化し、昭和十二年になって増築が実施されている。恐慌の影響は昭和十年頃まで続いたが、各町村においては厳しい財政難の中で、校舎の増築や校庭の拡張を実施していったのであった。699