ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
史講座が実施された。昭和十年には行方郡教育会が国史の研究を本格化させている。昭和八年の滝川事件ゃ、昭和十年の天皇機関説排撃及び国体明徴声明などの、国家主義的な動きに深い関係を持つ動きであった。}の時期は小学校へ弁当を持っていけない、いわゆる欠食児童の存在など、生活の根幹を揺すぶられるような苦難の時代であったが、学校行事をみると種々の行事が実施されていた。遠足、父兄会、学芸会、運動会、展覧会、唱歌会などが定期的に実施されていた。}れらのほとんどは明治時代の末から大正時代に開始されたものであるが、昭和恐慌の時代にも続いて実施されていた。とくにこの時期にはドッジボールが盛んに行われていた。学校対抗のドッジボール大会が頻繁に開催され、児童たちは胸踊らせて他校へ遠征していった。またこの当時の特筆すべき事業として、潮来尋常高等小学校における養護学級の経営をあげておきたい。養護学級は、昭和九年四月一日に開設され、尋常科て二年生のうちの、虚弱児童を対象としたものであった(『創立一OO周年の菜』)。教室は昭和五年に完成した新校舎の一階に置かれた。校医であった可児貞次郎は、養護学級設置にあたって大きな役割を果たした人物であるが、教室には自ら考案設計した養護児童専用の机を備えた。また恐慌下における厳しい食糧事情が、虚弱児童を生む原因のひとつになっていると考えて、昭和十年四月からは養護学級の児童に対して、主食と副食の給食を開始した。同時に貧困児童救済事業とし不況と戦争て、副食物給食を実施している。養護学級の経営は、全国的にも稀なものであり、貧困児童救済事業として副食物の給食を実施したことも、ずらしいことであった。第3章また潮来尋常高等小学校では、ラジオ体操を昭和八年ころから盛んに行うようになった。昭和十年七月にはラジオ体操の開設地を、県内で七九か所選定しているが、その一つに選ばれたからである。ラジオ体操会が組織されて八月一日から十五日まで、全町民が小学校の校庭でラジオ体操を実施している。小学校を卒業した後に上級学校へ進学しない人び青年教育の本格化とに対しては、明治時代の末期から農業補習学校を設けて、原則として夜間授業を行い、普通科目と実業科目の教育を行ってきた。同じく明治時代の末期から開始された地方改良運動のなかで各町村に青年団が組織され、青年団は地域の生産活動や文化活動のなかで重要な位置を占めるようになっていた。さらに大年十五年に出された青年訓練所令により、日曜日や祝祭日を使って軍事教練を行う体制が作られた。補習学校は、昭和のはじめに公民学校と改称されたが、実態は同じであった。そして補習学校、青年団、青年訓練所のすべての活動において、小学校の教員が関与し、強い影響力を持っていた。青年の活動はいつの時代においても、新しいものを作り出すエネルギl源として重要なものであるが、政府は大正時代から青年団の再編成と強化を図っていた。大正四年(一九一五)、文部省と内務省が中心となって青年団の目的、活動内容、組織の設置区域などに関する方針が打ち出され、青年団は自治的団体から官製青年団的な色彩を濃くしていった。大正十四年になると、文部省と内務省の指示により、青年団の全国組織である大日本連合青年団が結成された。各県に存在した連合青年団はめ次々に加盟し、翌年にはすべての都道府県の加盟が完了した。}れにより、国から県連合青年団、市・郡連合青年団、町村青年団という階層的な秩序が出来上がり、青年団は国策に裏打ちされた活動を展開するようこ-ょっf」、っこo 'erマ、LJJ701