ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

近で行われ、麻生中学校の配属将校が指揮をとっている。農業補習学校は、男子の場合、秋から翌年春にかけての農閑期の夜間に開設され、女子の場合は期間を限定して昼間開設されることが多かった。補習学校では小学校の教員が兼務で教える形が一般的であり、多くの青年が通学した。このなかで延方農業補習学校は、通年制の昼間の学校として有名であった。延方農業補習学校は大正十一年四月から通年制を採用し、修業年限は二年間であった。}れは県内でも数少ない事例であり、行方郡内においては、本校と延方村より後に設置された行方村外三ヶ村組合立農業補習学校の二校のみであった。延方農業補習学校へは、大和村(麻生町)、太田村(麻生町)、香澄村(牛堀町)、八代村(牛堀町)や千葉県域からも通学する生徒がいたという(『延小百年史』)。}のような活動は、昭和七年から開始される農村経済更生運動、昭和十年から開始される全村教育運動などのなかで、さらに活発に展開されていくことになる。昭和十年四月になると青年学校令が公布されいままで設置されていた農業公民学校と青年訓練所が合併されて、各町村に青年学校が設置された。両者の目的は違っていたが、学校教育の内容や施設の使用等においては重複する場合が多く、町村財政の観点からみても経費負担が重なり、好ましい形にはなっていなかった。}うした理由により、青年学校に統一されることになった。不況と戦争青年学校令第一条によると、目的は「男女青年-一対シ心身ヲ鍛練シ徳性ヲ緬養スルト共-一職業及実際生活-一須要ナル知識技能ヲ授ケ以テ国民タルノ資質ヲ向上センコトヲ目的トス」と規定された。青年学校の修業第3章年限は、普通科二年、本科五年(女子は三年)、研究科一年以上などとなっていた。普通科は尋常小学校卒業生、本科は高等小学校卒業生が入学することになっており、高等小学校卒業生が入学する本科が最も重視された。青年学校発足後においては、青年訓練所で行われた教練が青年学校のさらに厳しい訓練が実施されていった。日中正課として位置づけられ、戦争が勃発した昭和十二年になると青年学校令の改正により、青年学校の目的は「忠君愛国ノ大義ヲ明ニシ献身奉公ノ心操ヲ確立スルコト」と変更された。また昭和十四年からは青年学校が義務制となり、中等学校入学者を除くすべての青年が入学することになった。そして麗溝橋事件に端を発する、日中全面戦争から太平洋戦争の時代になると、銃後を支える第一線の役割を果たしていった。昭和十年度から昭和十四年度にかけて、延方村で延方村の全村教育は全村教育運動が実施された。昭和七年に農山漁村経済更生指定村の指定を受けて活動してきた延方村は、昭和十年に茨城県農林課および社会教育課から経済更生特別指導村に指定されて、全村教育を開始した。経済更生特別指導町村の指定制度は、昭和十年度から開始されたが、その趣旨は、従来からの経済更生指定町村に加えて、茨城県農林課、蚕糸課と社会教育課の三課が協力して一郡あたり一町村を指定し、農業と蚕業の経営指導及び中堅青年の育成を行うことであった。本来は三課が一致して町村を指定するはずであったが、昭和十年度においては一四郡のうち九郡については一致したが、残りの五郡については一致をみなかった。一郡につき複数の町村が指定されることがあり、合計その結果、一九町村が指定されることになった。行方郡では延方村が農林課と社会教育課の二課指定となり、八代村(牛堀町)が蚕糸課の単独指定となった(昭和十年四月十三日「いはらき」新聞)。703