ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代していった。「銃後の守り」を固めることが、人びとの生活の柱となっ現「」、つb同04KLサ'日中戦争が開始されると新聞の論調は、戦果の報道を大々的に行いな近がら、「銃後の赤誠皇軍への感謝の熱風」などと題して、連日銃後のV守りの大切さを宣伝するようになっていった。同年十二月十二日には、南京陥落を祝う町をあげての祝賀会に小学生も参加している。国内で発行された新聞を戦地へ送ることも行われた。このような慰問と共に、武運長久を願う祈願祭も頻繁に行われていた。潮来尋常高等小学校の場合には、素鷲熊野神社で何回にもわたって行われていた。また武運長久を祈ることが模範的な善行とされ、潮来尋常高等小学校では、昭和十三年十月に六名の女子を、昭和十五年十月には銃後強化週間にあたって四名の男子を模範善行者として表彰している。潮来地方においては、)の時期に奉安殿の建設が潮来町と津知村で行われている。潮来尋常高等小学校においては、昭和十五年七月二十五日に奉安殿の竣工式を挙行した。また津知村では、同年九月十五日に起工式を行い、翌年四月二十九日の天長節の日に竣工祝賀会を開催している。これらの小学校は奉安殿建設では遅い部類に入るのであるが、奉安殿には天皇、皇后の写真(御真影)と教育勅語が納められており、児童は登校および下校時には、奉安殿に向かって最敬礼することが義務づけられ、最も大切に扱うべき施設とされた。御真影は独立した奉安殿ができる前は校舎の中に奉安所を設けて大切に守ってきたが、奉安殿が作られたことにより、御真影の存在感はますます高められたのであった。また昭和十四年二月には、茨城県訓令として「茨城県教育綱領」が公布されており、昭和十五年七月にはこれの講習会が潮来町でも実施された。「茨城県教育綱領」は、かつて天保九年(一八三八)に徳川斉昭が作った「弘道館記」の文章を模倣して作られたもので、次の二つが住とな706っており、一Oに及ぶ実践項目が挙げられたものであった。て神州ノ道ヲ奉シ内外ノ弁ヲ明ニシ以テ皇運扶翼ノ至誠ヲ効スベシ二、実学ヲ尊ピ明行ヲ旨トシ以テ有為有能ノ皇民タルヲ期スベシまた働き盛りの男子が、戦場へ赴くことにより生じた労働力不足を補うために、農繁期には小学生も勤労奉仕を行った。以前から農繁期に児童を休ませることは行われてきたが、それは自宅の農作業を手伝うためのものであった。)れが日中戦争開始後においては、集団で特定の家族の労力奉仕をする形態に変化したのであった。小学生たちは、学校の授業と同時に各種の行事に参加しながら、銃後を支える役割を担うことになったのである。日中戦争の解決の方向が見出せなくなっていた昭和国民学校の教育十六年三月になると、国民学校令が公布され、同年四月に施行された。}れまでの小学校はすべて国民学校と改称された。国民学校令の第一条には目的として、「皇道ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲナス」と規定された。国民学校の修業年限については、初等科六年と高等科二年の合計八年間と規定され、昭和十九年を期して八年間の義務教育制度を完成させることになっていた。昭和十六年から開始された太平洋戦争の戦局悪化などにより、義務教育八年制は結果的には実施されずに終わってしまったが、公布当初の計画は以上のようになっていたのである。国民学校令により従来の教科は大幅に統廃合され第Vω表に示したように変更された。}れと同時に、教育の内容及び方法に関しては、国民教育の方向と帰趨を明らかにし、国民錬成の立場から教科の観念を確