ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第3章国理体教ctr=民数錬有E不況と戦争第V-40表科科科科科実業科(高等科のみ)国民学校の教科と内容科目および内容修身(国民道徳ふ国語(読方,綴方,話方,書方),国史,地理算数(算数一般),理科(自然の観察,理科一般)「国民学校令施行規則」より作成「いはらき」新聞には、軍人このころになると、壮年男子の教員も百集により学校現場を離れるも707昭和十七年十一月二十一日の苗が植えられた(『延小百年史』)。の意味があったといえよう。かはすべて畑とした。畑へは、少量の大豆のほかはすべてさつまいもの武道(武道の簡易基礎動作),体操(遊戯,体操,衛生,競技,教練)音楽,習字,図画,工作,裁縫,家事(高等科女子のみ)農業,工業,商業,水産ていくところに研究校として十年の春には校庭の開墾を行い、校庭の真中へ十文字の通路を作ったほを網羅的かつ計画的に実施しには一大隊の兵士が駐屯し、八つの教室で生活していた。そして昭和二)とであるがこ、れらの活動決戦に備えることを名目としながら農業に従事していた。延方国民学校)の国民学校でも実施されたいた。兵士でありながら、満足な武器を持つことが不可能となり、本土は、戦争の長期化によってど国民学校へは農部隊と称する兵士が駐屯し、農業生産活動を展開して}こにあげられている事項産、国土防衛の最前線に位置づけられることになった。食糧の増産国民学校には学校長を隊長とする学徒隊が結成され、国民学校は食糧増武運長久の祈願四月から一年間停止することとし、五月には戦時教育令を公布した。各国防献金戦教育措置要綱を作成して、国民学校初等科を除く一切の学校の授業を戦時必需品の蒐集戦局が末期的症状を呈してきた昭和二十年になると、政府は三月に決応百家族に対する慰問及び勤労奉仕「いはらき」新聞)。傷病兵に対する慰問派遣人の国民学校児童を動員する計画が立てられた(昭和十八年十月十五日戦場への慰問袋や慰問文の発送総動員計画」という見出しで、延ぺ八OOO人の中等学校生徒と、四万われた。踏み奉仕を行っている。同年の秋には「秋の農繁期を乗切る行方郡の方郡教育史』によると、活動の具体的内容としては次のようなことが行よると、昭和十八年二月二十二日には、潮来国民学校の五年生以上が麦武達校長以下の職員と児童が一体となって、研究と実践を行った。『行は、以前にも増して頻繁に実施されるようになっていった。新聞記事に民学校が国防教育研究の指定校とされていた。延方国民学校では、井村児童は労働力の供給源としても重視されるようになり、種々の勤労奉仕を期待されることになった。行方郡では延方国民学校のほかに、玉造国教育内容となった。また次第に厳しさを増す物資の不足を補うために、育研究の指定校に指定され、戦時教育体制整備のモデル校としての活動国民学校では、教室での授業に加えてさまざまな鍛練行事が、必須の太平洋戦争が開始されると、延万国民学校は茨城県から、軍人援護教事が載せられている。が重視されるようになった。習字を発送し、父兄や前線兵士から多大の感謝を受けている、'p」、、、hV三叶ノ寸「4】-4一=ロ立し、実践を重んじた知行合て心身一体の教育方針をとることなど、援護教育の徹底を期して毎月、延方村出身の前線兵士に学童の慰問文や