ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代成謝状仮豆・支払何門及金豪ノキ持品参撃場字義農閑-一明長女帯主摩川市ず格制ゐ場長ふ妻ノ毒血停委晶骨子セ号レ孔骨太ナリ一民吋,f,営委主鼠鳴を柔えMM争+九年玄月A司事3墨守啓蒙現近Vf鹿島町(鹿嶋市)の吉見屋へ贈られた感謝状のが増加し、教員の不足も深刻な問題になってきfここれへの対応策としては、女子を採用して急場をしのいでいった。行方郡教育会潮来部会内だけで、昭和二十年春に採用された女子の助教諭、准教諭は二O名にのぼった。潮来部会では新しい第V-63図教員の経験不足を補い、教育に関する研修の場を作るために、同年五月か日には津知第一国民学校で実施された。ら毎週一回各校輪番で研修会を実施することにした。研修会は五月十七その目的は、「新進教育者に真の皇道教育を把握せしむると共に経営の諸態を体認させ、初心者なるが故に受くる父兄からの軽蔑を一掃し、立派な決戦教育家たらしめること」にあったという(昭和二十年五月二十三日「いはらき」新聞)。昭和二十年五月には、飛来する米軍機を発見するための、監視哨を作る作業の基礎土盛り工事に、潮来国民学校の児童が動員された。新聞には「ヨイコも立派な戦闘員」という見出しで報道されている(昭和二十年五月二十日「いはらき」新聞)。また五月には、茨城県農業会行方支部は未につき、利用資源の食糧化をはかるために、国民学校の三年生以上の学童ひとりよもぎを二キログラムずつ採取する割当てを実施している(昭和二十年五月二十二日「いはらき」新聞)。潮来国民学校では、潮来国民学校学徒隊農繁期援農部隊と称して、六月一日から一四日間にわたって同708校の第二運動場四反歩を開墾して、大豆の種蒔きを実施した。米軍機の空襲が頻繁にあり、生命が危険にさらされる状況の下で、子供たちは必死の生産活動に取り組んだのであった。最後に潮来町へ集団疎開してきた、東京都の国民学校の児童の動きをまとめておきたい。昭和十九年八月になると、潮来町では東京都から集団疎開する学童を迎え入れた。学童の集団疎開は、昭和十八年十二月二十一日の閣議決定事項により計画が具体化していった。昭和十九年六月三十日には、「学童疎開促進要綱」および「帝都学童集団疎開実施要領」が閣議決定された。茨城県ではこれらの動きを受けて、昭和十九年一月二十二日に「茨城県疎開対策連絡部設置要綱」を作成し、受け入れに万全を期することとした。潮来町へは、東京都向島区の第三寺島国民学校と向島大畑国民学校の児童が疎開してきた。首都東京が米軍機の空襲を受け、市民生活が直接戦渦に晒されるようになったために、苦肉の策として採用されたのが学童の集団疎開であった。集団疎開をするのは初等科の三年生から六年生までの児重であった。『墨田区教育史』によると、潮来町へ疎開してきた児童数は、第三寺島国民学校から二六九名、向島大畑国民学校から二二二名の、合計四九一名であった。潮来町が受け入れた児童数は、県内で受入れた各町村のなかでは、最も多い部類に入っていた。}れらの児童は潮来町内の旅館や寺院を宿舎として生活を送ったが、宿舎となった施設と児童数をあげると次のようであった。一三四名を迎え入れた潮来ホテルは、単独の施設による受入れ数としては、県内で有数のものであった。第三寺島国民学校向島大畑国民学校角菱旅館九五名福弥旅館七七名