ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
潮来ホテル一三四名中村屋七四名長勝寺四O名遠く親元を離れて生活する子供たちは、淋しい思いと食料難によるひもじい思いをしながら生活することを余儀なくされた。茨城県では、疎不況と戦争第3章開児童がはやく新しい環境に慣れるようにするための施策ゃ、東京にいる父兄に対して、疎開先の様子を撮影したアルバムを送付するなどの対策を講じている。しかし戦局の悪化にともなって茨城県では、疎開児童を地方の生活に馴染ませるだけでなく、本格的な教育訓練をすべきである、という方針をとっていった。}れについて、昭和十九年十一月二十三日の「いはらき」新聞は、「疎開児に決戦教育」という見出しで、「疎聞は単なる逃避ではなく、地方の郷土人として逗しい敢闘精神と強靭なる心身を練磨して皇国民の育成をはかる事が大きな眼目であり:::」という県の方針を報道している。稲荷山下へ建てられた潮来技芸学校これらの疎開児童は、昭和二十年になると米軍が鹿島灘へ上陸する可能性が出てきたことなどにより、さらに安全な場所を求めて再疎開をすることになった。同年四月に向島区の児童たちは、東北地方の秋田県へ向かって出発した。第三寺島国民学校の児童は秋田県平鹿郡浅舞町、沼館町、大森町へ、向島大畑国民学校の児童は平鹿郡角間川町へ再疎開し、そこで終戦を迎えることになるのであった(『墨田区教育史』)。潮来町立女子技芸学校は、明治四十年に設立され茨城県立潮来高等女学校の成立女子の中等学校として確実な歩みを続けてきた。高第V-64図等小学校卒業生は本科生として三年、尋常小学校卒業生は選科生として一年の修業年限であり、裁縫や織物等の女子に必要な技能を会得させることを目的としてきた。女子技芸学校は昭和時代になると、高等女学校への昇格および県立学校へ移管することを目的としてさまざまな活動を行い、その結果として設備の充実や生徒の定数が増加することになった。昭和二年には県立昇格運動が開始され、昭和六年には組合立の学校にするための試みも行われた。高等女学校に昇格するためには修業年限を四年に延長することや、709