ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代校舎等の施設の拡充が必要であり、不景気のなかでこれらを実現してい現くには多くの困難があった。しかし課題を解決しながら、一歩一歩県立への歩みを進めていった。近まず昭和九年三月には校名の変更が認可され、茨城県潮来技芸学校となVり、四月から本科の修業年限が四年に延長された。昭和十一年になると、県立移管をめざす運動が活発に行われ、周年二月には校舎新築の動きが具体化した。敷地についてはいくつかの案があったが、結局は稲荷山下(大字潮来字出口一一二二番地)へ新築されることになり、昭和十二年九月に地鎮祭が行われた。そして昭和十三年一月に上棟式を行い、同年三月には新校舎が完成して移転した。生徒の定員も、新校舎建築にともなって増加され、従来の四O名から五O名となった。県立移管の動きはその後も続けられ、昭和十六年四月には茨城県社会教育課嘱託であった湯沢卯吉が校長に就任した。湯沢は青年教師の時代に、石下町の石下尋常高等小学校の訓導として、県の内外に有名となった「石下の自由教育」を推進した中心人物であった。県との太いパイプを持つ湯沢の校長就任は潮来町にとっても歓迎すべきことであった。昭和十七年三月には再び校名が改称され、念願の潮来町立高等女学校となった。県立移管を達成するためには、}のほかに校舎を増築して生徒定員を増加させる必要があったが、昭和十七年から校舎の増築に着工し、生徒定員を一学年一OO名とした。しかし、校舎増築のほうは戦局の悪化による資材不足などによって延び延びとなり、完成は昭和十九年の夏となった。}の聞の関係者の努力はたいへんなものであった。昭和十九年になって生徒定員の増加により生徒の寄宿舎が廃止されることになった/,)tこれに対しては、潮来町警防団の団長であった高塚安寿は、自分が経営する旅館潮来荘を同校の寄宿舎に提供した(昭和十九年五月七日「いはらき」新聞)。また資材とともに労働力が極端に不足するなかで、710同校の生徒やその父兄が校舎建設のために勤労奉仕を続けた。こうして一五O坪の校舎の増築工事が完成したのであった。十一月には茨城県参事会の視察があり、昭和二十年二月一日付で県立移管が実現し、茨城県立潮来高等女学校が誕生した。以上のように、昭和時代になると潮来町立女子技芸学校は急速に規模を拡大しながら、茨城県立の高等女学校となったのであるが、戦時下において生徒たちは銃後を守り、生産を確保する労働力として活躍した。日中全面戦争が始った昭和十二年の九月には、生徒約二OO名が夏の小遣いから国防献金として六六円七二銭を拠出している。昭和十三年の大水害の時には、八月になって小学校の農業実習地や潮来技芸学校へ苗代を作ったのであるが、これらの管理を技芸学校の生徒が請けおっていた。また応召軍人のいる家庭における裁縫関係は技芸学校の生徒が一手に引き受けていたという(昭和十三年八月十八日「いはらき」新聞)。その他にも慰問文の発送や農作業の勤労奉仕などは、日常の事となっていた。麻生中学校などの男子中等学校が行う軍事演習の時には、技芸学校の生徒は救護班として参加している。}れについて、昭和十六年二月二十四日の「いはらき」新聞は、「稲荷山で娘子軍は救護班」という見出しで報道している。また昭和十七年七月には、国民皆泳という国策に沿って、霞ヶ浦に水の家を一0日間にわたって設置し、潮来国民学校の水泳訓練の援助を行っている。戦時下においては以上のような多彩な活動を展開していったが、県立に昇格した昭和二十年の五月には、潮来高等女学校にも航空機の部品を製造する学校工場が設置されることになった。五月七日の「いはらき」新聞によると、五月には入魂作業式を行うこととなり、作業は当分の間