ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代現近代潮来の文化|潮来出身の二人の洋画家|第四節近V水郷「潮来」は、情緒豊かな民謡、あやめと真誼で知られ、近世以来水上交通の要衝でもあったため多くの文人墨客が往来し、」の地に学問・文化が育まれた。潮来の名が全国に知られるようになったことについては次のようなエピソードがある。元様年問、徳川光聞があやめを産地からとりょせ、潮来まで船で来た時、急に不用になったので真菰のなかに捨てたのが後日野生のように繁茂した。光聞は潮来の宣伝にあやめの民謡を書いた扇子数千本を注文したが、扇子ができても引き取らず、困った扇子屋は捨値同様で全国に売りさばいたので水郷潮来の名が広まったという。近代になっても、春はあやめ、夏は舟遊び、燈龍流し、秋は月祭など多彩な行事が行われ、昼は釣に鴨猟、夜は日本三大遊廓としてあやめ踊りや潮来甚句に旅情をなぐさめた。「潮来出島の十二の橋よ、行こか帰ろか思案橋」「潮来出島の真菰の中に、あやめ咲くとはしおらしゃ」と但謡に歌われ、また近代の文人たちのよき詩材にもなった。明日漕ぐとたのしみて見る沼の面の閣の深きによしきりの鳴く苫陰にひそみつつ見る雨の日の浪逆の浦はかき煙らへり若山牧水一日の田為事をへて帰り行く農夫の舟は妻が漕ぐなり真向ひの河岸に凝りたる朝寵の712流れはじめて天明けにけり半田良平水温む利根の堤や吹くは北高浜虚子下総の国の低さよ春の水正岡子規利根川の向ふは遅き田植かな正岡子規十二橋今日美しき額の花佐藤春夫炎天やついにポプラは風呼ばず久保田万太郎一方、大正七年(一九一八)に潮来を訪れた野口雨情が作詞した「船頭小唄」は、中山晋平の作曲で大正十一年にレコードが発売されると、アこちまち一世を風廃した。その後も「舟頭可愛や」(高橋掬太郎)、「流れの舟唄」(吉川静夫)、「潮来船」(たなかゆきを)、「利根の恋唄」(十二村哲)、「潮来花嫁さん」(柴田よしかず)、「娘船頭さん」(西条八十)、「潮来笠」(佐伯孝夫)など歌謡史に残る数多くの歌を含め、潮来を題材にした歌謡曲は非常に多く、その数一五OOを下らないともいわれている。また潮来を訪れた多くの文人・墨客も、小説や紀行文を残している。その一人で明治・大正期に活躍した小説家江見水蔭は、潮来を舞台にした長編小説『新潮来曲』(明治二十九年)を書き、直木賞作家の富田常雄は、利根川を背景とした新しい時代小説『潮来出島』(昭和二十九年)を室田いている。そのほか、歌人の北原白秋は紀行文『潮来の繁明』(大正五年)を出し、県内の牛久沼畔に住んだ近代日本画家の小川芋銭ゃ、その近くで農民文芸運動を推進した犬田卯も、潮来地方を題材にした作品を発表している(大久保錦一『水郷の文学散策』)。こうした水郷潮来の地は各地からの人びとを招き、その影響もあって、