ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
不況と戦争第3章近世以来学問文化の盛んな土地柄でもあった。本節ではそのような風土のなかに生まれた小堀進、村山密という二人の洋画家を紹介してみよう。小堀進は明治三十七年(一九O四)一月二十二日、大生原村大賀に生まれた。大正十一年(一九二二)佐原中学校卒業後、東京赤坂溜池の白馬会葵橋絵画研究所に学んだ。翌年より昭和十五年(一九四O)まで教職につく。この間、昭和七年に白日会展に初入選、翌八年には第二O回二科展に初入選、また水彩画展にも初入選し、昭和九年に日本水彩画会会員、翌十年に白日会会員に推挙された(白日会は大正十三年一月、中沢弘光、小堀進「海J(附和12年)富田温一郎、吉田三郎、池部鈎、岡本一平、川島理一郎、辻永らを同人として創立され、会員による第一回展の後、大正十四年の第二回展から一般作品を公募した。戦後は昭和二十一年から展覧会を再開、小堀は毎回個性豊かな水彩画を発表している)。昭和十五年教職を辞した小堀は、荒谷直之介、春日部たすくら八人の同志とともに、水彩画の革新をめざして水彩連盟を設立した。また昭和第V-65図十七年の第五回文展に「初秋水郷」を出品して初入選、翌十八年の第六回文展にも「水に咲く」で入選した。戦時中は昭和十九年より潮来に疎問、戦後二十二年に再上京する。文展(文部省美術展覧会)は、各美術団体がそれぞれに聞いていた展覧会を統合し、美術振興をはかることを目的に設立されたもので、明治四十年十月第一回展が上野公園で開催された。日本画・洋画・彫刻の三部で構成され、毎年秋に展覧会を聞き、各美術団体が一堂に競う場として、また新人の登竜門として大きな役割を果たした。大正八年に帝国美術院展覧会(帝展)に改組、昭和十二年再び文部省の主催となり(新文展)、戦後は日本美術展覧会(日展)と改称して現在に至っている。ちなみに明治四十四年の第五回文展では、潮来出身の日本画家藤岡紫峰が「五月雨」713