ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代で死去した。現一方、村山密は大正七年(一九一八)十月、小堀と閉じ大生原村の大字近水原に生まれた。昭和六年(一九三一)大生原尋常高等小学校を卒業後、麻生中学校に入学するが、翌年中退し、画家になる夢を抱いて上京、紀V尾井町の親戚の家に身を寄せ画家養成の川端画学校に通った。その後日本橋区役所に勤務しながら、春陽会(春陽会は大正十一年、岸田劉生、小杉放庵、森田恒友らによって結成された美術団体で、各会員が自由に創作活動を行うことを本旨として出発、優れた近代作家を輩出した。大正十二年五月第一回会展を開催して以後、毎年春に公募展を聞いた)の研究所に学び、)こで生涯の師となり友人ともなった、岡鹿之助に師事する。この村山と岡の出会いについて、美術評論家の匠秀夫は次のように述ぺている(「村山密の世界」)。聞は一九二五年、東京美術学校を終えてパリに渡り、藤田嗣治に兄事して画業に励み、サロン・ド1トンヌの常連となっていたが、第二次大戦の勃発で、前年(昭和十四年)暮、最後の引揚船で帰国、春陽会会員に迎えられたばかりであった。ポナノレラプラlド、ルケなどと親しく交わり、クレl、ルッソiさらにスlラに啓発されていた聞は、村山にとって、文字通り最新、最良のパリの窓となる。幼にしてパリに憧れた村山は、岡によって、目を聞かれる思いであったろう。弟子をとるのを嫌った岡も、一途に慕う村山は例外であったようで、格別に、目をかけてくれた。幼年時の村山が潮来の水と光と影に育まれたとして、少年時の村山は岡の薫陶で巣立つアとになるといえよ4J。昭和十七年、第二O回春陽会展覧会と文展に「花」で初入選を果たしたが、翌年応召、近衛歩兵の高射砲隊に配属され、終戦を迎えた。戦後716村山の作風はキュービズムなどの影響を受けて、戦前の具象的作風から抽象的な傾向へ変化していく。昭和二十五年、第二七回春陽会展覧会に「花」「室内」を出品し会友賞を受賞。そして昭和二十九年に岡の熱心な勧めもあって渡仏、念願のパリの土を踏んだ。」の渡仏は滞在費がつきて一年で帰国したが、昭和三十四年再び渡仏、以後パリに定住し、昭和五十六年にはフランス国籍も取得し現在に至っている。}の問、昭和三十七年にはトゥルネル画廊で第一回個展を開催、周年風景画コンクlルでドゴール大統領賞を受賞、翌年サロン・ナショナル・デ・ポザlルに「ノlトルダム・ド・パリ」を出品、外国作家賞を受賞、昭和四十四年アニュlル展でグランプリを受賞、昭和四十五年サロン・ドlトンヌ会員、そして昭和六十年には、日本人画家としては画期的なサロン・ド1トンヌ絵画部長に就任しオもパリ画壇の重鎮として活躍している。までの代表作に「ルlアンの聖堂」「パリの屋根」「夜のノlトルダム」「オンフルールの税関」「けし」などがあり、「日本人の心でパリを詩う」画家と評されている。てF