ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代資は軍需生産に朝貢されたために、農業生産のための資材は払底してい現た。そして昭和十五年(一九四O)にはじまる米穀の割当て供出制度によ近り、地主の小作米収取にさえ、著るしい制約が加えられていた。もはや村も昔日の姿ではなかった。昭和二十年の県内の作物の平均反収は、みVじめであった。明治三十八年(一九O五)以来最低といわれた昭和十六年を基準にしてさえ、昭和二十年は農業生産の落込みがひどい。茨城県における水稲の反当収量は昭和十六年の八Oパーセント(全国七七・一ニ)、陸稲六六・六パ1セント(同六八・一二)、サツマイモ八一・四(同七四・八)である。戦前期においてさえ、台湾、朝鮮、満州など植民地からの食糧に依存するところが多かったのであるが、それが杜絶したうえに、少ない収量であっては、食糧不足は免れることはできず、まさに食糧危機であった。昭和二十米穀年度における国民一人当り食物摂取量は一日二ニ二五キロカロリーと計算された。収穫された米穀の総カロリー量を国民一り当りに割振って得た数字である。」の数字は、当時の日本人一人が必要とされた一日一二六0キロカロリーの六Oパーセントに満たないことは当然であるとしても、生命の維持に必要といわれた一日一四二0キロカロリーにも達していなかった。ただし、茨城県においては、昭和二十年産米の供出が順調であったため、とりあえず年を越すまで食糧消費県におけるように配給が一O日以上も遅れた例はみられなかった。昭和二十年十一月に敗戦直後の日本の取材に訪れたアメリカ人記者は、この食糧危機に対して無為無策の日本の官僚に対して、批判を加えている。官僚は基幹産業の復興にだけ関心を示し、食糧、衣料、燃料などの生活必需品が国民の手元に届かず、生死の岐路に立たされていることに無感覚であるという(「茨城新聞」昭和二十年十一月五日)。日本の官僚以上に占領軍総司令部のほうが、深刻な食糧危機の到来を予見していた。押718収した軍需品を民需に振向けると発表していた。したがって昭和二十一年の端境期を越すためにさまざまな方策が生まれた。この年の七月一日から十月十五日まで、茨城県が予定した「茨城県食糧危機突破救県運動」もその一つであった。運動の実施要綱は、「現在の食料事情がどんなに苦しい状態にあるかは、北海道を始めとし、京浜、其の他の消費県、福島、宮城、其の他の生産県に於て、数日乃至十数日も配給が遅れたり、或は月に三日位配給を止めたり致してゐることからも、其の深刻さを知ることが出来ます」といい、消費者に対して、「未利用食糧資源は、利用し得るものは、利用し尽されて居るとは思はれるが、更に競菜の茎葉、皮屑、種、茶殻等、進んでは山野の自然草、樹葉や海藻に至る迄、食糧化し得るものは洩れなく活用する」ょう求めている。他方生産者に向けても、「個人主義的考へ方はなげすてて、同胞愛、義侠心を振ひ起して、米麦は固より甘藷・馬鈴薯・南瓜・未利用食糧資源に至るまで責任供出を完遂」するよう要望した。さらにこの実施要綱と同時に出された対策要綱では、未利用食糧資源の蒐集確保について、「学校との連絡、集荷機構の整備強化、粉化工場の建設、並に食粉組合、粉食協会の設立等に努めて来たが、漸く各方面の態勢が調って来たので、今後益々資源の蒐集に遁進し、之を粉化加工して、粉食の推進に依」り食糧危機を突破すると宣言している。対策要項のいう蒐集資源の第一はヨモギである。学童、生徒、非農家を対象とし、六月から八月の期間に採集運動を展開中であるという。乾燥したヨモギを買上げて粉化工場で製粉し食料とする計画であった。第二の資源は床藷、すなわち甘藷の苗をとったあとの藷である。「三百万貰を目標に、各郡に供出の割当をし、農業会が主体となって、目下蒐集中であ