ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
る」という。三OO万貫のうち一二O万貰は、「火力乾燥設備を有する高速度微粉末工場に出荷し、粉化」するという。量は記されていないが、パン製造工場へ持ちこまれる分もある。「生の俵磨り下し、パンの材料とする為」に水戸、土浦、目立の三市と中小都市のパン製造工場に出荷しパン製造をする計画も進めている。さらに「三市、炭鉱地帯、其他中小都会の希望者に、生の偉米差引で配給し、家庭利用させる計画」(以上『茨城県農業史第七巻』)もあるという。これらの要綱を承けたと思われるが、県農会行方支部でも、床藷一五万買を各町村に割当てて供出を要請している。数字にやや整合性を欠くが、六月下旬八OOO貰、七月上旬四万六OO買、同下旬一O万一00O買である。その根拠は、「本郡内の育苗圃四万三千二百坪に伏込まれである種藷は坪七貫目と内輪に見積っても三十万二千貫といふ莫大な量に上るのでその半分の十五万買の供出は可能と推定」(「茨城新聞」昭和二十一年六月二十二日)されるからである。しかし問題点が多い。苗床の床払の時期が、田植、麦刈など農繁期に重なるばかりでなく、床藷が「家畜の飼料にすら重きをおかれず捨てられてゐた」ため、供出のために労働力を割くのは無理があるという。学童などの労力援護がなければ、割当ての達成は困難視されるというのが新聞の見方である。潮来町域町村の割当ては、畑地が最も多い大生原村の数字が不明であるが、最も畑地潮来町の誕生の少ない潮来町でさえ一OOO貫、津知村で三八OO貰、延方村でも二四OO貫とある。家畜でさえ食ぺないであろう床藷は、当時新聞も「統合配給される問題の床藷」というように、あたりまえの調理法で人聞が食べられる代物第4章ではなかった。統合配給というから、床藷だけが配給されたわけではなく、他の食料と抱き合わせて配給されたはずであるが、端境期であったので米と共に配給されたはずがない。その問題の床藷の「美味しい食べ方の処理法」を行方郡各町村農業会の女子技術員が結成した食生活改善研究会が生み出したという(「茨城新聞」昭和二十一年六月十日)。調理法ではなく、処理法というところがみそであるが、「回覧板で一般家庭にこれが利用方を奨めることになった」という。処理法の一つは、「床藷をおろし生のまL山葵卸で摺下したものにトウモロコシ粉(又は糠、魅、小麦粉等)を半々又は四分六分に交合せ普通パンを作る如く重曹(フクラシ粉)を用ひて蒸パンとする」方法である。苦心の処理法ではあったが、床藷を単品で食ぺることは不可能である。魅はふすまで、小麦の粉をとったかすであり、糠も精米のかすである。食糧危機を切抜けるためでなければ、誰も床藷に着目はしなかったはずである。昭和二十年の作物の反収が軒並み減少しているなかで、ひとり甘藷だけは、収量を伸ばしたため、昭和二十年十一月には、水戸、目立、土浦などの消費地に対し、翌年一月分まで一度に配給されたという。もちろん米の代用としてである。県外に移出された分もかなりの量にのぼったとみられる。しかし、甘藷を計画とおり消費地に輸送することは、当時の状況では不可能であった。同じ十一月の下旬には、行方郡中、南部の各村農家の供出したサツマイモ七OOO俵が、鹿島参宮鉄道の各駅で、滞貨として野積みのまま雨にさらされ、悪臭を放っていると報じられて、}》。、v -d-ここでいわれた甘藷は、他の追随を許さない多収穫品種である有名な「茨城一号」である。煮ても焼いてもまずくて食ぺょうのない、'-e-サJJfサJだその外見だけがボリューム感あふれたこの甘藷は、無肥料でも多収穫を約束され、戦争によって荒廃した農地にはまことに夢のような品種であった。平均反収は実に七三O貫、甘藷の多収穫競争で増産王となった719