ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
ト越え」の退却作戦も有名である。富士山よりも高い標高四一O一メlトルのサラワケット山を越える一二0キロの道のりの死の行軍であった。赤道よりやや南とはいっても、山は寒気がひどく、低地の湿地帯も通ら死んだ退却であった。ねばならず、飢えと寒さと病気で、師団八五OO人のうち一一OO人がニュlギニアばかりでなく、茨城県出身の軍人、軍属で太平洋諸島で戦死した者は二万八二五名で、戦死者の半数以上がこの広大な地域で命を失ったのである。しかしそのうちでも、中部太平洋のパラオ諸島れる。にあるぺリリュl島では、茨城県出身の将兵が多数戦死したことで知ら昭和十九年九月十五日、ニミッツ大将の指揮するアメリカの機動部隊はぺリリュi島に上陸した。同時にマッカ|サ|箪もニューギニア西方フィリピンのレイテ島に上陸作戦のモロタイ島に上陸した。潮来町の誕生潮来町の地区別戦没者数地潮来区地津知区延地方区地大生区原言十満州事変以前13 4 15 12 44日中戦争10 8 20 9 47太平洋戦争199 68 186 49 502そ。コ{也9 6 12 27メ仁ミコ言十231 86 233 70 620第V-41表第4章)れらはを行うための足がかりを築くためであ遺族会の死没者名簿を基った。マッカlサl軍は容易にモロタイ島を制圧したが一ミッツ軍は、洞窟にたてこもって抗戦する日本軍を制圧するのに手間どった。ペリリュl島「その他」は戦災による死没者であるに集計したーを守備していた主力の歩兵第二連隊は、茨城県出身の将兵によって編成され、}の年の三月に満州からぺリリュl島の守備に転用されていた。他の配属部隊と合わせて守備隊は約一万名、アメリカ軍は四万人を越えたといわれる。二か月以上の抗戦をつづけ、ついに全員玉砕した。}の戦闘で戦死した茨城県出身者は三OOO人余である。潮来町出身の戦死者は二六名になる。潮来地区七名、津知地区三名、延方地区一二名、大生原地区四名である。右にみた多数の外地での戦死者のほかに、内地部隊に編入された茨城県出身の軍人、軍属は、陸軍五万九一七八人、海軍四万七四八O人、実に一O万六OOO人余になる(『茨城県終戦処理史』)。)れにほぼ近い一O万三OOO人余の軍人、軍属、一般邦人が海外にいた。日本国政府の受諾したポツダム宣言よれば、軍人、軍属は完全に武装を解除されて、各自の家庭に復帰して、平和的かっ生産的な生活を営む機会を得るよう義務づけられていた。内地部隊の復員は順調にすすんだ。十月半ばまでに終戦時の日本本土の陸軍総兵力二四O万人が復員している。また海軍については、十一月中に一九七万人の復員が完了した。外地部隊は連合国の各国の軍管理地域で引揚げ時期に差がある。フィリピン、中部太平洋などアメリカ軍の管理地域では、昭和二十年九月から二十一年五月にかけて集中して引揚げがすすめられた。}の地域にいた県出身の陸海軍人、軍属、一般邦人は一万七O O人を数えた。ボルネォ、東ニュlギニアなどオーストラリア軍管理地域に県出身者は六五OO人いたが、昭和二十年十一月から二十一年七月にかけて引揚げている。中国本土の中国軍管理地域では昭和二十年十一月から翌年七月にかけ三万三二OO人が引揚げた。イギリス軍管理地域は、タイ、ピルマ、て7レーなどで、一万二五OO人の県出身者がいた。そのうち第一次分が昭和二十一年五月から九月にかけて引揚げ、作業班は遅れて昭和二十二年三月から二十三年一月までかかっている。茨城県の把握した在外県出身未帰還者数は、昭和二十一年八月一日現在三万一七OO人であったが、翌723