ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代現近V年末には七六六六人に減少している(前掲書)。右にみた復員の集中は引揚げのもたらした数字である。しかし、終戦の年の十二月ころまでにほとんどがソ連領に抑留されたソ連軍管理地域からの引場げは、集中的どころか、部隊がまとまって復員することもなかった。昭和二十一年十二月からはじまる集団引揚げは中断と再開をくり返し、昭和二十五年四月に日本人捕虜の送還が完了したとソ連政府が発表し、集団引揚げは昭和二十八年まで中断する。以後昭和三十三年七月の第二一次引揚げまで、断続的に引場げはつづく。連領内に抑留された者にとって、戦後は長かったはずである。昭和二十五年二月二十八日、麻生高校で行方郡の在ソ同胞引揚げ促進大会が開催された。この時点で郡内の未引揚者は五O名を越えるといわれ、大会には昭和二十四年に引揚げた六O名余が参加したといわれる(「いはらき」新聞昭和二十五年二月二十日)。戦後の混乱期のさなかに、旧潮来町の主要部を焼き724旧潮来町の大火尽す大火が発生した。昭和二十二年四月二十一日午潮来町の戦没者慰霊碑後三時二十分ころに下町の乾物庖から発火した火災の第一報が新聞で報じられたのは翌日の朝刊で、見出しは「烈風中潮来大火百戸を焼き延焼中(五時現在)」とあり(「茨城新聞」昭和二十二年四月二十二日)、現在とは情報の伝達の速度は比較にならないほど遅い。翌四月二十三日になると、大火の全体像はつかむことができる。「潮第V-68図来百五戸焼失十五米烈風中の惨事」という見出しで、以下のように報じられている。折柄の南の烈風にあほられ火は忽ち四方に燃え広がり遠く千葉県佐原町、鹿島町等から消防隊が来援、消火に努めたが大風と水不足で手の下し様もなく町役場、警部補派出所及官舎、小学校、青年会館、専売局潮来出張所、警防団本部等の官街及塚本長治郎製縄工場、清見屋つけ物庖倉庫、若槙味そ醸造場、兼平瀬戸物庖、安原自転車居、中村水車居、元海軍官舎等百五戸を焼失幸い人に被害なく同午後六時三十分鎮火した。右によれば、火は三時間にわたって猛威をふるった。昭和二十五年国勢調査によると、戸数二二五二戸、人口七一八九人の旧潮来町において、一O五戸も焼失したのであるから、大事件であった。とくに人口密集地ソの火災であったため、役場、学校、警察署なども焼失したため、「県から係官が現場に急行して擢災者救済に当ったが催災者を収容する大きな建物が焼失した為め困っている」といわれた。以下新聞の報道は続く。原因は麻生署で取調中であるが風呂屋の煙突からの飛火らしい、焼失区域並に戸数は四丁目四四戸、三町目二六戸、二町目一八戸、下町七戸、七町目四戸、五町目四戸、七軒町二戸、津知村二戸、の