ブックタイトル潮来町史
- ページ
- 74/1018
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている74ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている74ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
潮来町史
原始・古代れらの土器は、デコレーションを付けた豪華なものである。また、時期に、浅鉢形土器がみられるようになる。このことは、交易による人の動きが活発になったことが考えられる。H交易については後に詳しく述ぺるが、交易によって動いた品物は、石鉱や石匙などに、多く使われている黒曜石であり、旧石器時代から長野県和田峠産の黒曜石が使われていることから、早くから交易のルlトが開かれていたようである。黒曜石と交換されるものは、たぶん塩や干し貝などの海産物であったのではないだろうか。塩の生産は、美浦村法堂遺跡(縄文時代晩期)などの製塩遺跡にみられるように、土器が作られるようになってから、土器を使った製塩が霞ヶ浦を中心に行われていたようである。交易による交流は、縄文時代後期に入ってからも継続され、大型の貝塚や遺跡が房総半島や震ヶ浦周辺部に形成され、そこで作られた土器が、関東一円に広がる。県内では、称名寺式土器(神奈川県横浜市称名寺員塚出土土器)、堀ノ内式土器(千葉県市川市堀ノ内貝塚出土土器)、加曾利B式土器、安行式土器(埼玉県安行貝塚出土土器)などがみられる。れらの土器は、中期の土器より小型で、薄手のものが多く、底部は後期後半になると小さくなる。文様は、縄文が中心であるが、磨り消し手法が盛んに行われるようになり、幾何学的な文様がみられる。器種は、注口土器、浅鉢形土器、異形土器などがつくられている。この時期の文様は、土器をキャンパスとして写実的に描いた中期の土器に対して、抽象的文様を主題とした意識を感じさせるものである。縄文時代一万年を経過した最後の時期である晩期になると、追跡の数は減少し、土器は後期から継続する安行式土器と、東北地方で広い分布圏をもっ亀ガ岡文化の中心的土器である大洞式土器(岩手県大船渡市大。コ洞貝塚出土)が近畿地方まで広がる。文様は後期より整理された幾何学62文様が描かれている。器種は、注目土器、香炉、皿、浅鉢土器が深鉢形土器に加わり、後半には壷がみられる。明治十二年(一八七九)、東京大学の学生佐々木忠二郎貝塚研究は、木原村(現美浦村)の川岸屋犬右エ門方に滞在して、霞ヶ浦周辺の貝塚について調査し、恩師であり、東京大学の動物学教室の初代教授でアメリカに帰国して、セイラム・ピlポディl博物館長となっていたエドワード・s-モlスにその成果について書き送った手紙が博物館に保存されている。なお、モ1スは、横浜からの汽車の窓から大森貝塚を発見して、日本で最初に発掘調査した人である。佐々木忠二郎は美浦村陸平員塚を中心に調査しているが、八月四日付けでモ1スに出した手紙をみると:・淡水産二枚貝の仕事に追われ、前回は海岸から員塚までの距離をつい、書き落としました。島津および陸平の両員塚の、海岸・湖V」からの距離を簡略にかかげます。陸平貝塚湖から距離1/2マイル海岸から約五里島津貝塚湖から距離l/2マイル海岸から約六里この湖がかつて海だったことの証拠は沢山あります。第一に湖畔から1/2マイルの距離にある島津貝塚は、品川や奥州松島におけるような、浅く濁った海水を特徴づける種、すなわち、ベニガイやウミニナ等の海産の貝殻から成っております。第二に、湖の東岸の部分は、すべて砂原になっており、丘も山もありません。第三にイタコ(潮来すなわち海水が来るの意)村の名は、}の土地がかつて海水に洗われていたことに由来します。予-、よ』/、チ' 4J}L}の第三の理由は、