ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第三節農業の変化代々水戸藩潮来領の大山守をつとめた須田家に生まれ水田単作地帯た須田幹三が、『帝国農会報』大正七年五月号に「天保年初の農家経済」を発表している。天保年初とは西暦一八三O年ころである。大正期の農家経済が昔と比較して租税も軽減され、作物の収量も増加したはずなのに、農家が「困懲せるを聞くは果して如何なる原因に依るか」、その解明の一助として資料を農界に提供するというのが、須田の論旨である。須田の紹介した史料は、彼の祖父喜源次が水戸藩の田制改革にさいし、「管区なる潮来郷(現今の茨城県行方郡潮来町附近)に於て、文化十年より天保八年までの平年の上村下村の農家経済を調査せるもの」である。天保期の農業経営の分析がこの節の課題ではないがここで紹介された上村と下村をみておくことは、潮来町域の戦後間もなくの農業の形をみるうえで、意味をもつであろう。喜源次翁のみた上村とは、「潮来延方辺村々にて民家居下に広き耕地を構へ山坂も無之たりとて薪取に指支も無之」という景観の村である。潮来町の誕生高台に屋敷があり、広い水田を見渡し、たき木をとるにも坂がないので楽である。田畑の肥料として藻草、菰の刈取も自由にできるともいう。ここで中田一町、中畑三反三畝、男女二人で経営したときの総差引残金は六再三分銭六九O文となる。第4章下村は、永山(牛堀町)、富田(麻生町)あたりの「田方用水乏敷土剛き古田の場所」という。震ヶ浦をひかえていながら、用水に不足し、土質は硬い。したがってめいめい田の井戸から水を汲みあげるので、おびただしく手数を要する。にもかかわらず、中田一町、中畑五反を男女両人で経営した総収益は一両三分二朱銭一貫四O文にとどまる。したがって、潮来延方あたりでは、男女二人で農業に出精すれば、米五O俵より六O俵は収穫できるのに対し、永山、富田あたりでは四四、五俵を収穫すれば、村内屈指の出精人となる。ただし、潮来延方あたりでも泣き所があり、「洪水の瑚は水腐致候事」と注記されるように、洪水だけが農家経営の弱点であった。このように、藻草、蔀などの自給肥料に恵まれ、高い土地の生産性を誇っていた江戸町代の潮来地域の農業生産の基調は、戦後まで持続されたといえる。しかし水害常襲地であったために、農家経営はきわめて不安定であった。第VMW表は、昭和二十二年八月に行われた臨時農業センサスを基にして作られた。当時、前節でみたように、農民改革が進行していたために、とくに小作地率についての数字は戦後の時点の数字をそのまま反映しているわけではない。表にみられるように、町域の耕地の圧倒的部分が水田であり、とくに潮来地区、延方地区において、水田は八五パーセントを越えるのである。そのうえ、二毛作田はきわめて少なくなっている。湖岸の低湿地は、治水工事をくり返しても、二毛作を可能にするほどの乾田化はすすまなかったのである。大生原村で一Oパーセント近い二毛作田がみられるものの、潮来町域としては水田単作地帯と規定できる。第vlM別表の基になった統計には、自小作別農家戸数も記されているが、自作農家数は旧潮来町で二二パーセント、延方村で一九・二パlセントときわめて低い数にとどまっている。他方、比較的畑比率の高い津知村と大生原村では、自作農の比率こそ二四パーセントであるが、津知733