ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
一町、中畑三反三畝の経営について、上村、下村の比較をしたのである主義的商品経済の侵蝕から身を守るには、兼業の賃労働にたよるか、副面積であって水田単作農業地域である」としている。喜源次翁は、中田るか明治末期にまで歴史をさかのぼることができる。小農民経済が資本要覧』は、「当町の農業は一戸当り水回数七反歩、畑数一・八反歩の経営業に農家は手を染めねばならなかった。農家副業は、』まず、内実は苦しかったのである。合併直後に出た昭和農家副業三十二年版『町勢うほかはなく、戦後しばらくの問、家計補充のための副さまざまな須田喜源次翁が上村とした町域の村も、高い土地生産性にもかかわら前項でみたように、潮来町の農家の経営規模は狭いとい地主的土地所有の侵蝕がはげしかったとみてよい。めるのである。村では、四町村の中では最も小作地率が高いので、一町三村ともども、層は、三三・七パーセントどまり、一1二町層は四五・六パーセントを占についてみれば、昭和三十五年において一町以下耕地計一毛作田二以毛上作田計畑田畑計畑地率林野田I田I田I同I町%田I潮来町453.82.3456.158.4517.211.31.0津知村145.5145.557.5203.028.322.3延方村578.60.2578.890.2663.013.628.3大生原村163.016.1179.1170.1349.248.7168.7計1340.918.61359.5 376.21732.4 21.7220.3自作地潮来町174.7174.728.5205.913.80.4津知村49.549.525.374.833.812.0延方村246.50.2246.845.7292.515.620.1大生原村72.55.778.265.1143.345.4166.2百十543.35.9549.2164.6716.523.0198.7小作地潮来町279.1 2.3 28l.4 29.9 31l.3 10.0。目6津知村96.096.032.2128.225.110.3延方村332.0332.04.5370.512.08.2大生原村90.51012.4100.9105.0205.951.02.5言十797.61224.7810.321l.61015.9 20.82l.6小作地率第V-46表耕地面積および林野面積% % % % % %潮来町6l.510.06l.75l.260.260.0津知村6.066.056.063.246.2延方村57.457.449.35.929.0大生原村55.564.656.36l.759.012.8言十59.568.359.656.258.69.8単位未満が4捨5入されているため計は必ずも一致しない附平日22年8月1日現tf r臨時農業センサスJ(茨減賊調台課)によるふくまれている。行方、稲敷、北相馬郡の水田地帯これには、県北山間地帯の零細耕作を集計した分も経営の農家数がほぼ半数を占めていることである。茨城県の経営規模別農家構成の特色は、町るいは微増として表われている。以下層とくに三反未満層の大幅減と以上層の微減あみるならば、一町i一・五町層を基軸として、そオも総数は約一Oパーセント減少する。}れを階層別にである。そしてその後の一0年間に、町内の農家近い五八パーセントを占めていることに注目すべき潮来町域において、一町以下を経営する農家が六割ところであるが、農地改革終了時の昭和二十五年にV革が、零細耕作を固定したことはつとに指摘された近五年と三十五年を対比してみたものである。農地改現第V日表は、経営耕地面積を広狭別に昭和二トとはいい難い。代が、潮来周辺では、}の規模の経営は必ずしも標準734