ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代昭和二十四年十月二十四日)。輸額計七万三八五ドルに達したという(同現出玩具製造の寿命は短く、昭和二十七年六月には、会社は事業不振で倒産した。近農村不況は、外国市場向けの生産だけで回避を図れたわけでなく、Vぎにみられるように特産物の生産も企画された。行方地方事務所、地区農業改良相談所、指導連支所では農村の金詰り打開策として特殊作物、白菜、カンラン、玉ネギ、唐ガラシ、椎タケ、油桐、ハッカ、蓮根、除虫菊等の栽培を奨励各町村毎に講習会座談会を聞いて普及に努めている同郡下の特殊作物栽培面積は大和、津澄両村の玉ネギ二百町歩カンラン百町歩を筆頭に玉造町の白菜百五十町歩、麻生、大和両村の除虫菊各三十町歩、行方、延方のしいたけ、現原の油桐など五十余種類約一千町歩に達しているが各町村とも栽培意欲すこぶる旺盛で春のまきつけ期を前に五百町歩位が増反されるものとみられている同昭和二十五年コ一月二十一日)右にみられるとおり、特産品は、旧潮来町の蓮根三O町、あるいは延方のしいたけを除けば、畑地の作物であり、水田単作地帯では手がけることのできない作目であった。しかし、潮来地方には、延方を中心として、藁工品の農家副業があった。『町勢要覧』が昭和三十一年二月一日調ぺとして掲げた藁工品生産高によれば、「販売を目的とした生産数量」は、かます、むしろ合わせて一一九万一八九O枚、なわ三四八六貫、販売価格四一九三万六O四六円という途方もない数字である。}れだけの量と販売価格を有する農家副業としての藁工品生産が、延万地区を中心にして展開していたのである。大正五年(一九二ハ)茨城県農会の刊行になる『茨736延方のかます製造続編』の第八章は、コ打方郡延城県の農家副業方村の藁細工」にあてられている。商品経済が農てコ村に浸透するにしたがい、米麦中心の農業経営では、農家は支えられなくなる。労働力需要が少なかった当時としては、唯一現金収入の途は農家副業であった。県農会が大正期に「茨城県の農家副業」全五冊を刊行したのも、県内の農村が自給経済から商品経済に転化をとげていた証しであるとみられる。当時、農家副業とは米麦生産以外の、農業にかかわって農家に現金収入をもたらす農業生産あるいは農産加工のことであった。したがって、読菜生産にはじまり、養蚕、製茶はいうに及ばず、産馬、織物まで農家副業であった。右の藁細工も当然農家副業であり、大正三年と思われるが、県農会の集計には「主要副業産額一二のうち、藁細工はて三パーセント、一六万四OOO円」とある。県農会による延方村の藁工品の調査報告であるが、「水田多く土質概して豊沃にして郡内第一の米産地たり」と利根川の沖積土壌のもたらす延方村の豊かな水田が郡内一のわら工品の生産量をもたらしたことをいぃ、さらに「汽車の便なしと難汽船によりて麻生、土浦、鉾田に交通し貨物は帆船によりて千葉県佐原町に送り之より汽車便により東京に移出す」とあり、この地は陸上交通は不便ではあっても、舟運の発達が、収穫物の移送を容易にしていたことも述べている。しかし、沿革ということになると「本村の藁細工は重に廷にて何時の頃より始まりし者なりや今日に於て之を精密に調査すること能はす」と当惑する。行方郡の農家の大多数は、かます、縄など各種のわら細工製品を、ー概して、そうはいっても、他の町村では発達しないのむしろ、自給しているからである。に、延方村でとくに隆盛をみるようになった原因を究めることは「極め