ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
て重要の事項」であるとして、以下のような結論を得るのである(『茨城県の農家副業続編』句読点、振り仮名は引用者による)。本村内十大字の中、藁細工の盛に行はるLは、何れも利根川又は北浦、浪逆浦に接したる部落なり。是等の部落は、古来氾濫の時にはこんばい非常なる惨状に陥るを常とす。此の困懲は自ら勤勉心を鼓舞し、備荒の感念を養成し、農家の副業として作業最も容易なる藁細工に従にしん事するに至りたるものL知し。殊に鹿島灘に於ては、古来に姐の漁獲あり。之より干蝿を製する際に、覆藍として多量の鳥羽藍を要し、あた或は其製品を他地方に移出するに方って、鳥羽廷にて之を俵装するか故に、極めて多量の廷を要し、本村並に附近町村に於て之を供給したるものなるべく、此等の事情相侠て、現今の隆盛を見るに至りたるものの如し。このように、水害常聾地のために副業に出精し、恒常的に貯えをして水害に備えたことと、鹿島灘における肥料用干姐の製造、あるいは包装にむしろの需要が多かったことが、副業隆盛の原因としている。「延方の薬細工」の次項には、軽野村(神栖町)島のわら細工についての報告がある。ここでも、むしろ製造の起源については、明確にすることはできない。むしろ製造は、やはり鹿島灘の干組製造とかかわっていたことを述べ、「従て製廷の業は古昔より行はれたるものなるべし」と潮来町の誕生結論づけている。しかし軽野村では漁獲量の不安定な漁村であるため、漁業が不振に陥るとともにわら細工も衰微していったという。大正期に農家副業として盛大になったのは、「農民の勤勉心に基くものなるべき欺」と推論する。)の村でむしろ製造が復興するのは、「明治十二年の第4章頃神奈川県に於て盛に行はれし廷の製造法伝はり、大槻儀助の妻女が之を織出し神奈川県に輸出し来りたりしか」といい、明治十二年に導入された一義むしろ、普通「神奈川むしろ」といわれるむしろが軽野村では一般的であった。そして「明治三十年頃より北海道の開拓事業の発展と共に同地に移出するに至り其需要増加し」、鹿島郡南部地方で競って生産されるようになったという。延方村のわら細工起源については、誰もが関心を寄せるようで、「同村のムシロ織りは何時ごろ副業から本業化されたかという点は余りはっきりしていないが明治初年ごろから幼稚な機械で織られていたということは伝えられている」(「いはらき」昭和二十七年四月一九日)という記事もみられる。さきにみた須田喜源次翁の天保初年の農家経済にも、むしろを売ったとは書かれていない。しかし本編第一章第六節でみたとおり、釜谷村の「明治三年庚午年分」の物産取調においては、「むしろ二五OO枚、代金五O円、他国輸出」とみられる。釜谷村は後年大生原村になり、延方村の直ぐ北に連らなるのであるから、量を別にすれば、延方地方のわら工品生産は、江戸時代から連綿と続けられてきたとみてよい。当然、わら細工の原料は稲わらであるが、水団地帯といえどもかます製造のためのわらをすべて自給することは不可能であった。軽野村における原料と製品の価額について、『茨城県の農家副業』は細かく数字を検討している。軽野村において、村内生産の稲わらだけでは不足するので、隣村あるいは千葉県からわらを移入しているが、)れは、ばく大な数量にのぼるという。村内生産のわら工品全体の販売価格は二万数千円であるが、むしろ製造に要する原料の価格とそれを織上げるのに要する労賃とは、ほぼ相半ばするから、原料は価額だけで一万円以上になるはずである。一反歩より生産する稲わらを平均七O貫とみなし、そこで、この村の耕地反別七O O町歩で生産できる総量は四九万貫になる。軽野村で取引される稲わらは、貰当り一銭七厘であるから、四九万買の総価737