ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
産量を大幅にしのいだこともあろう。戦時中から戦後にかけて、かますは統制物資であり、公定価格によーて価格が保証されていたために、生産は継続されていた。むしろ、増産が要請されていたとみるべきである。生産地も行方郡全域に拡大しているが、なんといっても延方村に比肩し得る町村はなかった。終戦の年の後半期は、「農繁、水害、終戦などの悪条件なるにもかかわらず県下一の生産量を示現」(「茨城新聞」昭和二十年十一月九日)したという。郡内一はもちろん延方村で、かます四万七O三O枚、むしろ一万八八六O枚である。つぎは戦前に頭角を現わしはじめた大和村のかます三万六000枚、潮来町二万六八六O枚、大生原村一万八三五O枚となっている。県内一の生産量は、長い労働時間によって達成された。有利な他の稼動条件にも振向きもせず細いランプの灯を頼りに寒風洩る納屋の隅、軒下で或ひは花に浮かれ出る隣人を外に食糧増産に不可欠の肥料入臥なるを念頭に只一途に生産を続けて来た婦人の労苦があることは見逃せないのである(「茨城新聞」昭和二十一年六月十六日)優秀なる生産を挙げた裏には炎熱の下で血の出る様な敢闘を傾けた生産農家(同昭和二十一年十一月十一日)県内でワラ工品の主産地行方郡下の農家は目下月明を利用あるいは潮来町の誕生たき火を頼りに夜業を続け割当確保生産に励んでいる(同昭和二十二年三月二十日)大正期に工賃の低さを指摘されていたかます製造も、右のような長時間労働によって生産量を増加させていたのである。勤労の結果は、昭和第4章二十五年あたりまでは、充分に報いられたとみられる。昭和二十四年暮れには年産二五O万枚の行方郡産のかます、むしろの買付けに、各問屋からの集荷人一O O名が「入乱れて買入れ競争を展開、@生産価格一枚二十六円だったのが最近二十七円七十銭に値上りしたが集荷人のセリ上げで現在三十一円に高騰している」(「いはらき」新聞昭和二十四年十二月二十七日)と報じられている。さらに延方村の好況についてはつぎのようにいわれている。殊に県下第一の生産地延方村は七百五十戸の農家に一千台のむしろ織機があり年産百八十万枚その売上代四千二百万円に上り農家の副業としては素晴らしい現金収人となり同村主食供出代金八千三百万円の五割以上を副業わら工品で占めており婦女子一人一日平均十枚は織り上げるから一ヵ月間約一万円の収入となるわけで同地方生産農家はほくほくの体である(同)水田単作地帯において主食の供出代金の五割を越える収入を得ては、副業としては大きすぎるであろう。右の記事は「女手で月一万円」と見出しがつけられている。当時、給与が高かった銀行の冬のボーナスにおいて、二七、八歳の男子行員は一万五OOO円くらいとされていたから、農村の婦女子が、月一万円の副業収入を得たことは、新聞記事になったのであろう。年が明けてもむしろ、かますの高値がつづき、行方地方の売上げは一億円になったと報じられている。しかし「生産品は品質が著しく低下、問屋筋は面喰いの体だが生産農家のふところ具合は至極上々」(同昭和二十五年一月三日)と、粗製濫造による品質低下のきざしがみえはじめる。加えて、}の年五月にはわら工品についての統制が撤廃され、集荷業者の買いしぶりもみられた。それにもかかわらず、昭和二十五年の秋もかますプlムは続いた。「県下随一の生産高を誇る延方村では供出米の価格よりもその副産物であるカマス、ムシロ代の方がはるかに多く一億円に達している」(同741昭