ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代和二十五年十一月二十九日)と前年の二倍の産額をみるのである。その分現だけ品質は確実に低下したもののようで、一O日後には、茨城産かますの評価が下落したことが報じられる。近京浜地方の肥料工場から引張り凧だった鹿島、行方、稲敷地方の肥料用カマスが品質の悪化と価格をつりあげすぎたため最近出回ってV来た千葉産のものに完全に押され遂に工場、卸業者から閉め出されるに至り成行きが憂慮されている同地方のカマスの年間出荷可能数量は約三百万枚だが早場地帯だけに出回りがよく無競争で京浜地方に進出し農民も水害の痛手をカマスでとり返えそうと生産に拍車をかけ十月中旬以降既に五十万枚を出荷価格も一枚当り統制価が二十九円のところ三十四円まで漕ぎつけるという盛況だったところが次第に品質が悪化し未検査品の出荷も多くなって来た上に最近最盛期に入った千葉県ものが運賃の点で本県ものより有利で価格二十八|九円程度品質も遥に優秀とあって本県ものはすっかり押されまず工場側から完全に閉め出されてしまったこれに伴って県内九つの卸業者も本県ものが二十七|八円に下り品質も向上しなければ競争できないと生産者を啓蒙するため今月に入って遂に買止めの措置をとるに至ったものでこんご残された二百五十万枚の出荷が危ぶまれている(「いはらき」新聞昭和二十五年十二月十日)以後昭和二十年代をとおして、品質向上H好況、粗製濫造による品質低下H価格暴落をくり返す。その間新型のむしろ織機の導入もすすめられる。「行方地方では従来の足踏み式に代って電力利用の高速むしろ織機が普及され一段と生産をたかめ、女子供でも一日の生産高二十五、六枚価格約千円」(同昭和二十六年十二月十三日)というように、昭和二十四742年時で「婦女子一人一日平均十枚」の二・五倍も織れるようになるし、間和三十七年になると、「最近はすっかり動力化し、一月八十枚から百枚を一人で織り上げ」(同昭和三十七年七月十四日)るほど生産量は上昇する。しかし、動力による生産量は上昇しても、「粗悪品が多く、}とに硫安用の三号品などではとても使えないと肥料工場から苦情が出る始末」(同)であり、検査合格でも六月だけで三・七パーセントの返品があっp-』'-、.、JOY-《L:ここで想起されるのは、四O年を湖る明治末年に得た「茨城米」の東京の米穀市場における声価のことである(『茨城県農業史概説』)。味はまずく「之ヲ炊ケハ粘リ気少フシテ、腰ノ強キ飯トナリ、之ヲ餅トスレハ、硬クシテ割キ放シ易キ餅ト為ル。恐ラク肥料トシテ石灰ヲ用フルカ為ナラン:::特ニ土浦米ノ如キハ、恰モ台北ノ第一期米ニ匹敵シ、地廻米中最下等ナリ」という。調製については、小売人泣かせで、「土浦附近ノ産米ハ稗ヲ混スルコト多ク、水戸近傍ハ:::籾ヲ混スルコト大ナリ。東京ノ一小売商:::罵リテ日ク、斯ノ如キ米ヲ産シテ吾等ヲ苦シムルコト斯ノ如クナル茨城ノ農夫ハ、ヨキ死様ヲ為ササルヤ必セリト」と最悪の評価を得たのである。さすがに調査した県職員も、「言語激-一流ルト雛モ」と怒りを押さえ、「不全ナル調製カ茨城米ノ声価ヲ損スルノ甚シキ」は認めないわけにはいかなかった。声価は品質と調製にとどまらず、俵装にまで及ぶ。茨城県産米ノ俵装ハ極メテ不完全ニシテ、宛モ芋俵ノ知シ。二重俵トハナリ居レト、内俵ノ如キハ径一寸位ツツモ藁ヲ掴ミテ編メル故、其間ヨリ米粒零レ出ッ。然モ俵ノ重サ壱貫七八百目ニ上ルヲ以テ、七噸ノ貨車-一載ス-二俵又ハ二俵丈相違ヲ生スルノ損アリ。縄ハ掛