ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
かれた腕章をつけた兵士はピストルを持って、当時青年学校の武器小屋になっていた場所(現在の郵便局の所)の検査に来たのであった。現場に居合せた人びとは、皆殺しにされるのではないかと思って恐怖におののき、勉強どころの話しではなかったという(『延小百年史』)。潮来町の誕生カJ\ハI「ゾレハガリガリトカジ・い常晴Wラレテハ、グマリ・.マセγ一て--.,.:-側副ア肺貯アマシタ。ネズミノオトウサンパ.ムスメ7.キγジョノネズミノオヨメサンニシマシタ。aF'争hv第4章この時このような国民学校の戦後処理に関しては、昭和二十一年七月六日に地方事務所学事室主任会議が開催され、}の席で県から「軍国主義並極端ナル国家主義的物件ノ徹底的処理-一関スル件」について指示があり、これが各国民学校へ通達された。また七月十二日には、茨城県内務部長から各地方事務長あてに、「学校教職員及ピ学校教育関係官公吏ノ居宅一一於ケル軍国主義並-一国家主義物件-一関スル件」が発せられ、教育関係者が自宅へ残しておくことも禁じるという、念の入った措置を講じた。だいたいこの頃までに、ほとんどの学校では奉安殿も撤去されるように』Fl品つ』F-。千rJ''戦前の学校教育の中核的存在として崇められてきた、御真影と教育勅語については次のように処置された。御真影(天皇及び皇后等の肖像画)紙を貼られた教科書については、奉安殿の撤去に先立って昭和二十一年の春に、地方事務所へ返還が実施された。また教育勅語に関しては、戦後すぐに廃止するということはなかったが、昭和二十一年十月八日付で捧読停止の措置がとられ、最終的には昭和二十三年六月の国会で「教育勅語の失効に関する第V-76図決議」が可決されたことにより、その役割を喪失した。教育勅語の精神および昭和十四年に作られた「茨城県教育綱領」をはじめとする、神がかり的な思想を教育の基本精神として仕事に当たってきた教員にとっては、敗戦の虚脱感と同時に価値観の転倒にとまどう者も多かった。現象的な面として『延小百年史』のなかに、戦後になるとピンタが著しく減少したという記録があるが}れなどは教育者としての迷いや自責の念などが複雑に絡み合った変化であったと思われる。一人一人の教員の心は複雑であったが、とにかく物不足と先行きの見通しがはっきりしないなかで、新しい日本を建設していくことが重要な課題であることに変りはなかった。749