ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
足は一層甚だしいものとなった。)れは学校教育の現場においても同様であった。教科書についてみると、昭和二十一年には何種類かの新しい教科書が作られて各学校へ配付されたが、)れらの教科書は粗悪な藁半紙へ印刷されたものであり、分冊形式で製本されていないものであった。このような教科書を受けとった児童が、自分で裁断、製本して使用したのであった。昭和二十二年になるとそのような教科書はなくなったが、教科書を買うことができない児童が数多く存在し、先輩が使用した教科書を借りて使用することが一般的であった。鉛筆やノ1トなどの学用品も甚だしく不足していた。食糧や衣料品も極端に不足し、児童の弁当といえば芋めしゃ麦めし、じゃがいもなどであり、おかずは梅干であった。学校へ弁当を持ってくることができない児童も数多くいた。服装は洋服の人と和服の人が入り交じっていたが、ひざやしりには必ずといっていいほどつぎはぎがしてあり、足袋や下駄を履いて登校した。雨や雪の日には、足袋や下駄を脱いで素足になって登校した。まさに苦難の数年間であった。昭和二十二年四月になると学校教育法が施行され、各町村にあった国民学校はすべて小学校と変更され、修業年限は六年間と規定された。学齢が国民学校初等科卒業の児童は、新制中学校へ入学することが義務づけられ、国民学校高等科の一学年および二学年を修了した者は、中学校潮来町の誕生へ入学することを本人の意志により決定することになった。このように言語に絶する苦難のなかから、戦後の教育が開始されたのであるが、新しい学校制度が作られて聞もない昭和二十二年四月十一日には潮来町に大火災が発生した。}の火災により潮来町下一丁目、一一丁第4章目、三丁目、}の火四丁目の民家や官公街など一六八棟が焼失したが、災に潮来小学校も巻き込まれて、全焼してしまったのである。多くの住民が焼け出され、生活を再建することがまず大変なことであった。新しい資材を手に入れて校舎を建築することは恩いもよらない状況の下で、小学校では午前と午後に時間帯を区切った、二部授業を実施していくことを余儀なくされた。校舎再建にあたっては、旧北浦海軍航空隊の兵舎の払い下げを受けることとなり、間口四五・五問、奥行七・七問、三五一坪の中廊下付きの校舎を建築したのである。工事は校舎焼失から一年を経過した、昭和二十三年四月になって完成し、やっとこ部授業が解消されたのであった。昭和二十年九月の延方国民学校に続いて、潮来小学校もまた火災のために焼失したのであった。また昭和二十五年十一月十八日には、潮来小学校の十番分教場が焼失している。}のように潮来地方においては、戦後の五年間に三つの学校施設が焼失するという打撃を受けたのであった。戦後の教育改革のなかで最も大きな事柄のひとつ新制中学校の設立}れにが、三年制の新制中学校の設立であった。より、小学校の六年間に加えて九年間の義務教育体制が完成し、今日に至っている。しかし、新制中学校を設立する事業は、物不足が甚だしい時代であったために、非常な困難をともなうものであった。財政難と物不足の地方自治体にとって最も解決困難な課題は、新制中学校の独立校舎を建設することであった。当時は地方自治体にとって、「供出と教室は命とり」という言葉が語られるほどであった。茨城県が昭和二十二年三月の記者会見において、新制中学校の設置にあたっては地方財政を考慮して、柔軟に四つの案を用意していたこともその現れであった。各町村が独立した新築校舎を持ち、教員も潤沢に供給できれば一番よいことであったが、それは不可能なことであった。潮来地方においては、753