ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
定されると、義務教育の過程で教育活動の一環として実施されることに両品っ,-。+J千'その目的とするところは、児童・生徒の心身の健全な発達を図り、さらに国民の食生活の改善に寄与すること、とされた。潮来町においても小学校が成立して数年の聞に開始された。昭和二十六年十月には学校給食栄養指導講習会が潮来小学校で開催され、行方郡内のすべての小中学校の女教員が参加している(昭和二十六年十月八日「いはらき新聞」)。この頃は、小学校の女子教員に給食の企画運営が任されていたことがうかがわれる。また、農業が不作に見舞われた昭和二十八年の潮来町では対策を協議し、一日一回は粉食を実施することを申しAロわせている。このような苦労はあったが、戦後の食糧不足の時代にあって、学校給食は児童の栄養補給の観点からも重要な役割を果たしたのであった。潮来高等学校の発足太平洋戦争の敗戦により、中等学校においても、軍国主義・国家主義の排除および民主化推進の方策が急速に実施されていった。特に潮来高等女学校は昭和二十年に待望の県立移管を実現してからわずか四か月足らずで、激動の渦に巻き込まれていくことになった。奉安殿をはじめとして軍国主義的物件の除去作業は、徹底して実施された。また教育の大転換の時代は、深刻な食糧難の時代でもあった。生徒たちは学業とともに食糧の確保にもあたらな潮来町の誕生ければならなかった。昭和二十二年には学校教育法が成立し、新制中学校は同年四月から、新制高等学校は昭和二十三年四月から実施されることになった。昭和二十二年に新制中学校が設立されたために、潮来高等女学校では昭和二十第4章二年の新入生募集を行わず、臨時的に校内へ併設中学校を設置して二、三年生の教育を実施することになった。併設中学校で学ぶ生徒は三学年終了時に、新制高等学校の一年生へ編入するか、そのまま卒業していくかの選択をして、それぞれの道を歩んでいくことになった。高校へ編入するか卒業するかという選択は昭和二十四年三月にも行われ、昭和二十五年四月の新入生から、すべてが新制中学校卒業生ということになった。また旧制の時代に入学していた、上級生の進路の選択も重要なことであった。昭和二十一年二月の中等学校令の改正により、潮来高等女学校の修業年限は四年制から五年制に変更された(ただし昭和二十一年三月の四年卒業は認めていた)。旧制の時代に入学した生徒は、昭和二十三年三月に高等女学校を卒業する時点で、新制高等学校の三年生に編入するか否かの選択を迫られたのである。昭和二十三年四月には旧制潮来高等女学校が、潮来高等学校と校名が変更され、新制高等学校がスタートした。潮来高校は一学年の定員が一五O名の、普通科課程を持った新制高等学校として再出発することになった。修業年限は三年と規定された。この年に県全体では、従来の中学校、高等女学校および実業学校を母体にして県立四七校、市立一校、町立一校、私立六校の新制高等学校が発足した。しかし男女共学、通学区、学科課程の適正配置等については課題が残った。昭和二十四年度にはこれらの課題に結論が出され、男女共学を原則とし、県内全域を八つの学区に分けた新しい教育制度が作られた。}れにより、昭和二十四年四月に多くの高等学校でふたたび校名が変更された。それは旧制中学校ゃ、男子の実業学校がある市や町に設置されていた高等女学校が、昭和二十三年に女子高等学校と校名を変更していたが、翌二十四年には男女共学を原則とする制度に変更されたためである。男女共学を原則とするため、女子高等学校という名称では都合が悪くなり、757