ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代旧制中学校や実業学校などを第一高等学校、旧制の高等女学校を第二高現等学校としたのである。潮来高等学校の場合には町内に複数の中等学校がなく、昭和二十三年に潮来女子高等学校ではなく潮来高等学校と校名近を変更していたため、校名の再変更をする必要はなかったのである。V潮来高等学校は戦後、普通科のみの高等学校として出発したが、昭和二十四年四月からは商業科を設置し、さらに昭和二十五年には家庭科(現在の家政科)を増設している。また、昭和二十四年度には定時制課程を設置した。こうして潮来高等学校は昭和二十五年から普通科、商業科、家庭科の三学科と定時制を持つ高等学校となった。さらに昭和二十六年には家庭科に二年課程の別科を増設し、昭和三十九年三月に廃止されるなお昭和二十四年には高田登代子作詞、椿真太郎作曲によまで続いた。る校歌が制定されている。町立以来の長い伝統を持つ潮来高等学校の学校生活については、昭和二十四年に「いはらき」新聞が連載した「私の学校」シリーズの潮来高等学校編から、一部を引用しておこう(昭和二十四年六月二十五日)。技芸学校として独立してから幾年、更に高女から県立へと昇格の道をたどって今日に至ったのである。この苦難の歴史を乗り越えて来た私達の学校には他校では味わえぬ苦しみを通しての清らかな花が咲き匂っている。}の古い歴史から校内の活動に目を転じてみよう。一際目立つ体育の進出、二回の優勝を続けたパレ!と国体目指す送球との豊かなスポーツマンの体躯がグランド一杯に躍動している様は若鮎のような新鮮さだ。男生が組織する野球の意気込みも仲々である。笑いさピめきながらすごす昼休みの一コてテニスコートに集る男女生徒の明るい雰囲気、しかしこうした華やかなスポーツ界の陰に地方文化の向上を目指しての弁論部、文芸雑誌若鮎、報道部の新758設等その内容も充実し、情操の陶冶と社会研究とに一層の努力がなされている。生徒会の役員選挙の時には立候補者の挨拶やらその応援演説やら、火花を散らして真剣な運動だった。時折行われる討論会も活発で傍聴席には報道部の記者達が控え、頻繁に討論が戦わされる男女生徒聞の挨拶、仲睦まじく働く放課後の清掃もほほえましい男女共学の学園だ。昭和二十四年十月二十八日には、潮来高校の第一団体育祭が実施された。また文化祭も行われるようになり、昭和二十五年十二月三日に行われた文化祭は約三OOO人の来客で賑わった。)の時には売屈で生徒が作った品物などを販売して人気を博した。」の時の益金は、学校の各科の資材購入の費用にあてられたという(昭和二十五年十二月六日「いはらき」新聞)。その後も学校の施設は着実に整備されていった。昭和二十七年には待望の講堂が完成し、十二月八日には講堂落成式と文化祭が開催された。また昭和二十九年三月には化学実験室が完成した。面積は三O坪、工費七五万円をかけて作られた施設であった。昭和三十年十二月にはPTAから、価格が六O万円という立派なグランドピアノ一台の寄付を受けた。このころ学校では商業科の生徒を中心に珠算熱が高まっており、「いはらき」新聞は潮来高等学校が北総珠算競技大会で優勝したことを伝えている。また昭和二十八年三月二十三日の「いはらき」新聞は、潮来高等学校が地元で根強い力を持っていて、」の地方の教員のほとんどが潮来高等学校の卒業生である、と報じている。