ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代る一連の政策であり、「一九五一(昭和二六)年政令諮問委員会答申、地現方行政簡素化本部の設置から、五二年の地方自治法改正、自治庁発足、地方財政委員会廃止、五三年の町村合併促進法制定、五四年自治体警察近廃止、地方財政平衡交付金の地方交付税交付金への改組を経て、一九五V五年(昭和三O)年地方財政再建促進特別措置法公布に至る」時期である。右の民主化と逆行的手直しの時期は軍国主義の日本を民主主義日本に改編しようとする占領政策を貫徹させるための上からの改革が、官僚的行政機構を存続させるために阻まれる過程であったとみられる。戦後改サ早期を経て、合併を要請された町村の役場組織にも、大きな変化がみられた。従来の行政村の組織は、村長は、名誉職として地主が兼務するのが一般的であったし、役場の吏員も農業に従事する傍らで役場事務をとる牧歌的組織といってもよかった。農地改革により、村長はもはや地主であるはずはなく、たとえ戦前の地主が村長を勤めていたとしても、土地を喪失した彼は、給与への依存度を高めていたはずである。また役場吏員も、第二節でみたように、農地改革によって耕地が細分化され、農業への依存度は小さくなり、専業的に役場事務に従事した。また町村役場事務の激増は、兼業事務を許さなかった。戦中から戦後にかけて、中央官庁は、それらが国家的影響をもっという理由で、行政事務の多くを国の事務と規定した。しかし規定はしでも、自らそれを行うことはなく、地方公共団体に事務委任することにより、中央官庁は、地方公共団体をその下級機関にするように「指導、監督」した。めに市町村役場の背負った事務量は激増した。戦後の一時期をみただけ)のたでも、農地改革、食糧の供出、配給物資にかんすること、復員者、引揚者の受入れ、複雑化した徴税事務など枚挙にいとまない。したがって、国|都道府県|市町村と縦列化された機関の行政事務の760範囲と方法とは、一切国が決定し、そのうえに法令と補助金とで国政事務すら義務づけていたのである(『町村合併』)。}のように固定化された中央集権体制を解体させるべく、戦後の町村合併は意図されたのでないことは、さきにみた戦後一0年間の民主化と逆行的手直しとをふり返れば、明らかであろう。念のためにいっておけば、明治の町村合併で行政村にとりこまれたはずの旧幕以来の自然村は、脈々と生きながらえてきている。明治末に日本資本主義の侵蝕により農村と農業が危機に瀕したときも、昭和の経済恐慌により農村が崩解寸前に陥ったさいにも、自然村のもつ隣保共助の「美風」は喧伝された。そして自然村としての農村集落は、戦時体制下にあっても、食糧供出、食糧増産、戦時動員の拠点として機能した。さらについ最近、米の生産調整にさいして、それを受容した最末端機構として機能したのも、農村集落であった。右のような背景をもって進められた町村合併を具体的にみていこう。行方郡においてはじめて町村合併について報道されたのは、昭和二十八年五月二日、郡町村会理事会であろう(「いはらき」新聞昭和二十八年五月二日)。記事は四日に「町村統合等について協議」とあるだけで、その内容はわからない。戦後の市町村合併を導いた「市町村合併促進法」が公布されたのは、昭和二十八年九月一日であるが、茨城県ではそれに合わせて、九月末に開会予定の県会に提出すぺく、町村合併関係三条例を準備し、十月一日に施行することにした(「いはらき」新聞昭和二十八年九月八日)。第一は、「茨城県町村合併促進審議会条例」である。審議会は町村合併に関して知事の諮問に応じ、合併を円滑に推進する知事付属機関では