ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
八代村三O四O計一一一一一一一VI潮来町七一八九津知村四延方村六一七O計一五六O右のうち、町村名の下の数字は、いうまでもなく、人口である。町村合併促進法は、人口八OOO人以上を合併町村の標準としていたので、行方郡内町村の地区割りは、みられるとおり標準を充足していた。逆にいえば、人口の要素だけが追求されたあまり、他の重要な要素は捨象されたとみられなくはない。明治の町村合併が終了して間もなく、明治二十二年三月の「自治新誌』の論説は、「市町村境域」と題し、「経済上より論ずるときは小町村を合併し又は他町村を併属せしめて新なる大町村を作るを以て利ありと為すへしと雄、顧て将来果て能く私睦の関係を保ち得ぺきや否やを思ふときは一概に大町村組織説に左担すべからさるものあり」と懐疑的であったが、明治の町村合併は、}のように「ただただ一定の人口数をもっ大町村をつくるに専念し、生産構造、人情、習俗を無視し、水と油を同器にした合併」(宮本憲一「明治地方自治制と町村合併」、引用も同じ)といわれる。}の轍の跡はあまりにも深く、六五年を潮来町の誕生経た戦後の市町村合併といえども、そこから抜け出すことはできなかったものとみられる。年が明けて直ぐ、一月八日には、県町村会が合併試案に対する意見書を提出する。第4章県町村会では八日午前十時から同会館で町村議長会の政務調査会及び町村会の政務調査会を聞いて町村合併問題を協議した結果、県が去月二十二日発表した町村合併計画案は、なお検討の余地があるので町村会としては、}れを単に参考程度に止めることとし、左記事項を特に考慮してもらいたいと、次のような意見を八日県地方課及び県町村合併促進審議会に提出した。て合併問題はまだまだ関係住民に浸透していないので色刷県図等の発表は慎重を期せられたいて県の合併促進審議会には委員として一名も選出されない郡があるので適当な代表者を選任すべきである(「いはらき」新聞昭和二十九年一月九日)町村会では、県の合併案を、単に参考程度にとどめて欲しいとの意向であった。住民の側でも、激しい拒絶反応をみせたところもあった。「新治郡新治、志筑、七会三ヵ村合併問題に端を発し反対側の七会村上稲吉区長らは千七十五名の調印をとりまとめ十日同村選管委に村長解職、村議会解散のリコール請求を行なった」(「いはらき」新聞昭和二十九年一月十二日)というように、町村合併だけが問題になったわけではないであろうが、混乱した村もあった。しかし、その一方で、「三月末結城市誕生か」「龍ヶ崎市も実現近し」同昭和二十九年一月十五日〉というように、合併に動く流れもみられ、北相馬郡では、合併促進協議会が続々と結成されたともいわれる(同)。潮来地区の合併に関する動きは、やや後れて、昭和二十九年四月十五目、旧潮来町役場に一町四か村の町村長、助役、町村議会議長、副議長、庶務主任等が参集した会議にはじまる(以下『茨城県市町村総覧』による)。一町四か村とは、旧潮来町に津知、延方、大生原に八代村が加わっていた。八代村は「隣接村香澄村をも合併の条件としていたため」に結局は脱落する。四月の合併会議以降、各町村の住民に対する啓蒙、輿論の統763