ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代一などが図られたが、潮来、津知、大生原については問題はなかった。現村の一部に異論のあった延方村については、つぎのように記録されている。近延方村は人口約六千二百人をもっ郡内第二の大村であり、種々異V論も多く、延方、大生原の二ヵ村合併、潮来部会単位の合併(従来の案)、合併反対などに分かれ、一時は多少問題となった。そこで役場は村内各層から五十人の合併調査員を決定して数回にわたって、総ての角度から充分に合併対象について研究した。その結果は従来の潮来部会との合併が適正であるとの結論を得て、そオ工に基く輿論調査の集計が八O%以上の賛成するところとなった。一部の反対者を除いて合併による大潮来町を建設することに期待しているという事実が判然とした(『茨城県市町村総覧』)。右の経過により、潮来地区の一町三か村合併は、十月にはほぼ決定をみた。当初の合併試案によれば行方郡は新しく六町村が誕生するはずであった。しかし新聞は「結局四、五ヵ町村に四地区の計面ほU成る」としてつぎのように報じている(「いはらき」昭和二十九年十月二十六日)。行方郡下の町村合併は玉造地区(玉造、立花、現原、玉川、手賀)が来年一月一日に新玉造町として発足するのをトップに麻生地区、潮来地区、武田地区と相次いで合併案が成立、潮来地区(潮来、津知、延方、大生原)は来月十五日に各町村一斉議決を行うことに決り、武田地区(武田、津澄、要)も年内に議決の段取りとなり、麻生地区(麻生、小高、行方、大和、太田)は年度内に合併することに決定、従来の行方部会に大体まとまる模様である、)の四ブロックの外に香澄、八代両村の合併による水郷牛堀町の発足が香澄村長須田誠太郎氏等によって計画されているがこの二ヵ村の合併では人口七千余なので、地方事務所ではこの案をあまり好ましく考えておらず、現764在のところ行きなやみ状態となっている、また鉾田町の隣村秋津村は行方郡を離れて鉾田町に合併する模様がある、}れによって「打+万郡は現在二十ヵ村に分れているが、来年度からは四、五ヵ町村に統A口されるさきに県が示した合併案は、行方郡については必ずも実現されなかったとみてよいであろう。昭和二十九年十二月十一日聞かれた県町村合併促進審議会は、「潮来、津知、延方三ヵ村地区及び大生原、太田、大和地区の計画案を、潮来、津知、延方、大生原地区に変更する」と合併計画を変更した。そして「計画案の一部変更によって取り残された町村の合併計画については急速に小委員会をつくって取り残された町村の合併計画については急速に小委員会をつくって検討の上、改めて計画を立てることになった」(「いはらき」新聞昭和二十九年十二月十二日)といわれる。水郷牛堀町の構想は、合併町村の標準を満たしていなかったため、地方事務所が好ましく考えなかった。しかし構想は貫徹され、昭和三十年四月一日、牛堀村が誕生する。右の経過によって、一町三か村合併による大潮来町は実現をみるのである。明治十一年(一八七八)に行方郡役所が設置された折にこの一町三か村は、第二事務組合として、連絡を密にしていたということであるから、七七年前に戻ったことになる。合併時に三か村をとりまいた地理的環境はどうであったか見ておこう(『茨城県市町村総覧』)による)。津知村潮来町の東北にあり、東西二・一粁、南北四・五粁の村で面積は四・四六平方粁である。地形は東北に長く、大字築地大字辻に分れ、辻は平坦で商家が多く、築地は丘陵の地で山林原野が多い半農半商その他は概ね農を生業としている。西南に潮来町、東北は