ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
稲井川を挟んで延方村、西は八代村、北は大生原村と相接している。行方郡の東南端にあり古高、須賀、曲松、小泉、新宮、西、延方村東、洲崎、下回、徳島の十区に分れる。東は北浦をへだてて、鹿島郡豊津村、西は稲井川を境に津知村、南は内浪逆浦に望み、北は大生原、津知村に接している。東西五粁、南北六・八粁、面積二ニ・九一六方粁である。南部は全く半島の形で湖につき出ており、その東部は平坦地で田圃多く、西及び北部が僅かに陸に接している。前川、鰐川によって南を徳島新田、北を本村と二大分される。徳島新田及び鰐川、北浦にのぞむ地は土地が低くたびたび水害をうけるので、民家は東南部に密集し多く半農半漁その他は農によって生活している。府方郡の東端にあり東北一帯北浦に沿って鹿島郡と向い、西は太田、八代村に接し、南は延方、津知村に接している。東西大生原村一ニ・九粁、南北五・四粁面積一三・六二方粁の村である。東南部北浦沿岸は沖積層の水田地帯で肥沃の地多く、本村の耕作地区域である。西南部一帯は四粁余の大生野原で地質は痩せているが、山林に富み、村民の薪炭の材源となっている。近年耕地面積が少いため、開墾事業が盛に行われ林間の所々に畑地を見るようになった。大字水原に清水池、根本池の二つの池があり濯概に利用される。潮来町の誕生一町三か村の合併については、住民もほとんど賛成大潮来町の成立するところであり、昭和三十年二月二十一日を新町発足の日と決定し、知事宛に合併申請書を提出することになった。新町名「潮来」は、歴史的には、「常陸国風土記」にま第4章でさかのぼることができ、全国的に知名度が高いという理由で選定された。新しい町の役場は、当面旧潮来町役場とし、役場に隣接する公民館の一部を改造して、職員を収容することになった。一町三か村が合併を必要とした事情を『茨城県市町村合併史』はつぎのように記している。潮来町は日本水郷の中心地として観光地的形態を備えている。他の三村は純農村で文化、経済面における潮来町を中心とする同一社会圏を形成している。従って人情、風俗も類似し住民の社会生活の態様も同一生活圏にあるというように密接な関係にある町村の合併によって財政力を充実し、将来の住民の福祉の向上を図ろうとした。一町三か村は人情も風俗も社会生活のあり方も、ともに同じであり、合併によって財政力を充実して、将来の住民福祉の向上をはかるるため、合併は必要であるという。昭和三十年二月十一日、一町三か村が合併した大潮来町は発足するが、新聞の報道はきわめてひかえ目であった。合併の「祝賀はあやめ祭に」として、次のように報じられていた(「いはらき」新聞昭和三十年二月十日)。潮来町と隣接の津知、延方、大生原の一ニヵ村を合併、人口一万八千二百十五名、戸数三千百九十三戸、面積四二・二平方キロの大世帯となった新潮来町の合併発足式典は十一日同町役場で行われる町役場には現在の潮来町役場を改造のうえ、当分の間使用、旧延方村と大生原村の両役場に支所を設置、津知村役場は図書館か公民館とし、支所は設けないなお町の建設計画によると次の通り中、小学校従来通りとし、学区もそのまLとする、消防団は統合して潮来町消防団となし旧町村ごとに支団を設ける霞ヶ浦、北浦両湖の治水事業促進土地改良につとめ、湿田単作法を実施して五ヵ年計画で全耕地を二毛作可能地とする、前川、765