ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代季のとり方であるが、季節によっておおよその狩猟、漁携、植物採取がきまっていたと考えられる。春は多くの植物が芽吹く時期である。」の時期には、タラポ、ゼンマEイワラビ、カタクリの根、ノピルなど多くの植物の根や若芽、内ノVt、茎、根などが食用として採取され、冬の間保存食品で食生活が賄われて、EP-、、、品、L4J.ヵはじめて新鮮な植物を摂取することになる。また、海岸では、多くの貝や海草類が採取されている。}れらの作業は、女子や子供があたったであろう。海には舟がでて、沿岸漁業が開始され、一気に食料が山豊かになる。これらを採取し、加工するための道具は、植物や貝などの採取には、木の繊維で編んだ袋物ゃ、深鉢形土器、龍類が使われ、根を掘るためには、打製石斧が使われるが、木の先を尖らせたものも使われたのではないかと思うが、木を切り、先を尖らせる道具として磨製石斧が使われて、}》。、V Md-採ってきた植物は、そのまま食ぺるものと、乾燥して使うものに仕分けされ、乾燥して使うものは、網代のような敷物に広げられ、直接食ぺるものでも、アクの強いものは、いちど深鉢形土器で煮沸してアクを抜き、加工して食ぺるものは、石皿と磨り石を使って丹念に潰す。狭間貝塚にみられる貝の層の中に、ハマグリ、カキ貝が純貝層として固まってみられるが、かなりの収穫があった時は、採れたものをその日の食卓にあげるのと、剥身にして干して保存食ゃ、交易の製品に加工し、加工できない貝を一度に捨てたことを物語っている。夏になると、回遊魚が黒潮にのって鹿島沖を北に向かう頃で、各地の貝塚からは、マグロ、カツオをはじめとして、マダイ、クジラ、イルカ、エイなどの外洋性魚類や海獣の骨が出土している。震ヶ浦の奥ゃ、そオ1に注ぎ込む川では、ウナギなどの淡水魚が捕られていた。66フナコJ・、これらの魚類は、漁網を使ったり、鹿角製釣針によって釣り上げたり、鹿島製モリ・ヤスで刺突して捕獲する。漁網は遺物として残っていないが、軽石製浮子や石製または土製の錘(おもり)が遺跡から出土している}とから、漁網の存在が考えられる。また、釣針、ヤス、モリなどの漁携具は、震ヶ浦周辺だけではなく、貝塚のほとんどから出土しており、貝塚をもっ集団のほとんどは、海民の可能性がある。秋になると、いろいろな木の実が熟れる時期となる。ウJH'、クルミ、トチ、〉〆イナラ、カシ〆カヤの実ゃ、ヤマブドウ、アケピなどの果実などを採取し、木の実は保存食用として貯蔵用に掘り込んだ袋状土坑などの中ゃ、家の中には、深鉢形土器、龍などに入れて蓄え、果実は直接食卓に上げるか、ヤマブドウは、深鉢形土器に入れて、発酵させて飲んだ可能性がある。縄文時代中期ごろ、有孔鍔付土器とよばれる特殊な深鉢形土器が見られるが、)の土器の用途として、革を張って太鼓にしたとする説と、ブドウなどを発酵する容器とする説があり、世界の例から考えると、果実を使った酒が作られていたことは否定できない。さらに、球根や根に澱粉を蓄えるユリ、ヤマイモ、クズ、ワラビなどは、打製石斧で掘り起こし、石皿や磨り石を使って澱粉を作っていたよパン状炭化物が出土している。秋田県協和町の上ノ山H遺跡から見つかった炭化物を分うである。縄文時代中期・後期の遺跡からクッキー状、析したところ、内容物がアカハラ、ツグミ、ウズラの卵、イノシシやシカの動物性脂肪が七三・五パーセント、コナラ、トチ、クリの植物性脂肪が二三パーセントで、残りは、岩塩、酵母、動物の骨や血液が含まれ、約二三01二五O度で焼かれていたものであると分り、」の成分は今のハンパlクと同じであることから、}の炭化物も縄文ハンバーグとして