ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

に翌年には、運輸省第二港湾建設局長を現地に案内して、掘込式港湾の建設可能性について調査研究を依頼した。運輸省の検討結果は、建設可能であるとのことであった(『茨城県史近現代編』)。ところで、戦後の地域開発をみるばあい、昭和二十年代後半が、多目的ダム建設を中心とする河川総合開発によって特徴づけられるのに対し、昭和三十年代には、重化学工業のコンビナートを軸とする、拠点開発方式が主流を占めたと指摘されている(宮本憲吉『経済大国』増補版)。昭和三十七年に策定された「全国総合開発計画」は、世に第一次全総といわれている。計画は地方開発拠点として人口一OO万人の新産業都市を指定するのが中心とされていた。指定を受ければ国の補助金を得てコンビナlト建設が可能となる。この指定を受けるべく、全国の道府県が競ってコンビナート計画を作って指定陳情書を提出した。鹿島も、当然、指定競争に加わった。昭和三十八年七月の閣議決定によって新産業都市に指定されたのは追加指定の二か所をふくめて、一五か所、}の中に鹿島は入ることができず、からくも準新産業都市ともいわれる六か所の一つに加えられた。}れらの指定都市はコンビナートを構成する主要企業の誘致に苦慮しなければならなかった。その一例、岡山県知事は、「三菱石油の致致のためにお百度参りをつづけ、ために三菱石油本社の階段がすりへったといわれたほど」のすさまじさであった。またわが茨城県の変わる潮来地方岩上二郎知事は、「鹿島港建設のために、運輸省幹部にたいし、期でやめず何期でもつづけるという、県民の選挙権を侵害するような口約をさせられているほど」といわれた(同前九このような涙ぐましい陳情競争がくりひろげられたにもかかわらず、第5章前記二一の指定都市のうち、鉄鋼・石油コンビナートを誘致できたのは、全国で岡山県南部、大分、鹿島の三か所にとどまっている。鹿島臨海工業地帯を造成する目的を、昭和三十六年九月開発の進展作成の当初計画ともいうべき「鹿島臨海工業地帯造成計画」(マスタープラン)で読めば、「鹿島工業港の建設及び震ヶ浦を水源とする工業用水道計画を中核とする臨海地域に、四000ヘクタールの工業地域を造成するとともに、交通網の整備と相まって、数千ヘクタールの住居を開発し、鉄鋼、石油、化学、機械等の総合的臨海工業地帯の実現とあわせて、機能的近代都市の形成」にあった。てrスタlプランによれば工事期聞は昭和四十五年までの一0年間という。工業港は四万トン級の船舶が入港できるよう掘込み式とし、計画の完了時には人口二O万人を擁する近代都市が出現することになる。計画はいく度も改定された。翌年には工事期間を昭和四十七年にまで延長させ、出現する都市の想定人口も三O万人にふくらんでいる。また工業港の完成時とされる昭和四十三年には、二O万トン級の船舶の入港しゅんせつに対応できるよう、水深一九メートルまで後深することになった。すでに昭和三十七年の最先端タンカーは一三万トンといわれ、四十一年には二O万トンタンカーの大型化がすすむの五十七年には三七万トンと、である。工業地帯の造成について、最も困難であったのは、用地の確保であった。「六・四方式」といわれた独特の買収方式がとられた。買収地域内に土地の全部を所有する地主に対しては、全所有地を買収する代りに、その六割にあたる土地を替地として地域外に提供する。また買収地域内に四割以上の土地を所有する者は、四割を超える分について地域外の土地を替地として渡すという方法である。開発計画区域内の土地所有者はすべて四割程度の土地を提供することになり、用地提供者の土地減少を平均化する狙いがあった。しかし、計画区域内の土地は民有地が多く、71