ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代用地買収は順調には進まなかった。現昭和田十一年十一月に、県は進出企業名を発表した。住友金属、三菱-hEEレぃ、・鴨川,ペt日本製鋼などの一流企業が名を列ねる。以下開発の経過を年代記近風にたどれば11昭和四十二年十二月、進出二三企業の立地決定。昭和V四十三年十二月、住友金属鹿島製鉄所建設着手、翌年四月、熱間圧延工場操業開始。昭和四十四年五月、石油化学コンビナート関連会社合同起四十六年六月、操業開始。昭和四十四年十月、国鉄鹿島線香取l工式、北鹿島運転開始、周年十一月、鹿島臨海鉄道営業開始、進出企業のための貨物輸送網整備。こうして造成されたコンビナートの県内経済への寄与度についてあらましを見ておこう。一般にいわれるように、コンビナートで生産される素材が、地元企業で消費される割合は、石油を除けば、低いとされている。すなわち鉄鋼では二Oパーセント、石油化学製品では一Oパlセントにとどまるのである。コンビナートに進出した大企業は、自前の下請け企業ともども移転するので、労働力需要をあてにした周辺部が得る恩恵は少ないともいわれる。県鹿島開発局が昭和五十五年に調査した結果をまとめた報告書によれば、鹿島に立地した企業およびその関連企業六八社の男子従業員の出身地は、八Oパーセントが県外である。さらに、男子従業員の七パーセントにも満たない女子従業員でさえ、地元採用者は少なく県外出身者が二六パーセントにもなっている。報告書では、調査時点における計画の達成率が示されている。投資額三九パーセント、出荷額三一パーセント、従業員数四八パーセント、敷地利用面積七Oパ1セントとなっている。オイルショックの時期をふくむとはいえ、開発開始後一五年を経てなお、計画の半ばを下回っていた。しかし、一度コンビナートが操業をはじめれば、県内の産業構造は大きく変化する。製造品出荷額についてみれば、昭和三十五年における茨城県の石油・石炭製品の全国順位は一八位、四十八年には九位に上る。772鉄鋼も一八位から十一位に躍進する。さらに昭和四十四年時に県内の製造品出荷額のうち、鹿行地区の占める割合は三・二パーセントにとどまっていた。それが翌年には一0・八パーセント、昭和五O年には二七・七パーセントにはね上がる。一工業地帯の現出によって、数字が異常に増滅することこそが、後進的発展の証左なのである。鹿島臨海工業地帯への進出企業名が公表されて間鹿島からの熱い風もない昭和四十三年六月に作成された「潮来町振興計画書」は、町づくりの基本構想を「拠点開発の関連においてとらえなければならない」(『潮来町振興計画書』)としている。最終目標時とされた昭和五十年に見込まれる就業人口一五万人、総人口五0 1六O万の大都市を出現させるという工業整備特別地域内にある潮来町としては当然であった。県の策定になる「鹿島地区工業整備特別地域整備基本計画」において、潮来町をふくむ行方南部地域は、「自然景観の保全につとめながら観光・リクリェlション施設を整備拡充することにより観光地としてさらに発展させるとともに環境良好な住宅地を配置し}れに伴う所要の商業・文教施設等の整備を図り、臨海工業地区の後背地としての必要な機能を分担するものとする」と位置づけられていた。工業地帯の周縁部として、観光地あるいは住宅地として役割が予定されていたといえる。昭和四十二年十一月十四日の建設省告示により、全町が都市計画区域となり、翌年には用途地域が指定された。」のさい指定された住居地域、商業地域、準工業地域の範囲は、つぎのようである(『広報いたこ』第四七号