ブックタイトル潮来町史

ページ
789/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている789ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

就業構造における農業の地位の低下は、相対的に他の業種の上昇をもたらしている。平成二年の構成比のうえで、高い率を示しているのが製造業と卸売業・小売業である。ただ両業種は、平成二年において、製造業空一六パーセント、卸売業・小売業が一二パーセントと、高い構成比を示すものの、昭和四十年以降の展開は対腕的であった。すでに新しい潮来町の成立当初、農業就業者が六七パーセントを占めていた昭和三十年においでさえ、卸売業・小売業は一二・四パーセントの構成比を示していたのである。日本水郷の中心地として、旧潮来町には、観光業が発展していたことを考慮に入れれば、当然の数字ではある。しかし、その内容をみれば、卸売業の比率は低く、小売業についても、「七割を占める農家を対象とした商庖が多く従ってその日常生活必需品を供給するに止まって」いたのである(『町政要覧昭和三二年版』)。したがって鹿島臨海工業地帯の造成に対しては、商業の発展をも約束するものとして熱い期待がこめられていた。昭和三十九年三月の『潮来町建設実施計画書』は、「同地域へ勤務する工場勤務者の住宅整備と相侠って消費人口は増加し本地域は急速度に変化するものと予想され」「特に国鉄水戸佐原線の新設は: ::駅を中心とする商店街が形成され」るとパラ色の夢が描かれていた。変わる潮来地方しかし、就業人口の構成をたどってみれば、急激な変化をみることはできない。就業者数は、昭和五十年と五十五年にやや急な増加をみるものの、微増をくり返すのではあるが、昭和五十五年からの五年間にはわずかではあるが減少しているのである。商業に対するに製造業就業者数の増加は劇的であった。昭和三十年に第5章四・九パーセント、三十五年に六・七パーセント、四十年においですら一Oパーセントにとどかなかった製造業の就業者は、昭和四十五年以降急激に増加するのである。就業者数を昭和四十年を基準にしてみれば、昭和四十五年に一・八八倍、五十年二・四四倍、五十五年は二・九一倍、平成二年には、実に三・四九倍にもなるのである。この劇的な製造業就業者の増加には、鹿島臨海工業地帯に通勤する部分が寄与していることは、いう必要もないであろう。前節でみたように巨大開発の後背地として、住居地域を提供することを求められていた行方地方、その中核的役割を担ったわが潮来町は、その役割を充分に果しているといえよう。=戸当り水田面積七反、畑面積一・八反という狭小な経さまざまな農業振興策営規模で営まれてきた農家経営は、前章でみたように、明治末期にまで湖源できるかます製造の副業によって、かろうじて維持されてきた。その命綱ともいうべきかますの需要が杜絶すれば、農家は苦境に立たざるをえない。「茨城県東南部に偏在して地形的に交通不便なこの地帯の過剰する農家二三男の授産対策をどうするか」と合併直後の昭和三十二年に策定された町の「農村振興基本計画書」は問いかけている。交通の便が悪く、経営規模が小さければ、労働力の流出は避けられなぃ。昭和三十九年の「潮来町建設実施計画書」も、昭和三十五年以降の町の総人口減に着目し、「その理由は種々あると考えられるが主として京浜地方への転出による減と見られ:::その減の大半は農家人口の減と目される。本町の総人口の約七割を占める農家人口は常住世帯員に於て過去五ヶ年間に一三二名の減となり所調農家二三男が京浜地区に転出して行くことに依るものと見られ本町の労働力は年々弱化の傾向にある」と農家労働力の流出に着目している。労働力の流出に歯止めをかけるため水田地帯の潮来町南部の潮来第一地域農村振興協議会が昭和三十三年に示した計画は、土地改良による水777