ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

いていえば、茨城県における豚飼養頭数は、すでに昭和三十年代はじめが昭和四十五年以降九Oパーセントを越す。その中で、水田率が相対的畜産についてみれば、養豚が圧倒的部分を占めている。その養豚につえたことではない。再三みたように、町の合計で販売農家のうち、稲作蚕業は確実に終罵を迎えることになる。ずで、本節のはじめに触れたように農家戸数が二O年で五OO戸近く消の安価な生糸の輸入自由化により、かつて全国津々浦々で営なまれた養脱農化がすすんだわけではなく、販売をしなかった自給的農家もあるは蚕農家が、規模拡大に応ずる余地はなかったはずである。そして中国産農産物の販売農家数は二0年間、不断に減少するが」の減少分だけ昭和40年農産物販売金額第l位の部門別農家数農販家産売数物農稲作工芸作物施設園芸野菜養蚕潮来町計1807 1 500 (83.0) 56 ( 3.1) 1 (0.1) 3 (0.2) 6 (0.3)潮来町507 432 (85.2) 1 (0.2)津知村240 170 (70.8) 20 ( 8.3) 1 (0.4) 1 (0.4)延方村736 675 (91.7) 1 (0.1) 1 (0.1) 1 (0.1)大生原村324 223 (68.8) 36 (1.1) 1 (0.3) 3 (0.3)昭和45年潮来町計16111490 (92.5)40 ( 2.5)3 (0.2)5 (0.3)22 (1.4)潮来町427421 (98.5)1 (0.2)1 (0.2)津知村199 162 (81.4) 12 ( 6.0) 1 (0.5) 1 (0.5) 5 (2.5)延方村695 683 (98.2) 3 (0.4) 3 (0.4)大生原村290 224 (7.2) 28 ( 9.7) 1 (0.3) 1 (0.3) 13 (4.5)昭和田年潮来町計1 391 1 309 (94.1) 41 ( 2.9) 10 (0.7) 15 (1.1)潮来町340 332 (97.6) 4 ( 1.2) 1 (0.3)津知村168 148 (88.1) 1 ( 6.5) 1 (0.6) 3 (1.8)延方村631 627 (99.4) 1 (0.2) 2 (0.3)大生原村252 202 (80.2) 26 (10.3) 7 (2.8) 10 (4.0)昭和55年潮来町計13561261 (93.0)47 ( 3.5)12 (0.9)2 (0.1)1 (0.8)潮来町335322 (91.6)1 ( 0.3)31 (0.9)津知村141118 (83.7)15 (10.6)1 (0.7)1 (0.7)3 (2.1)廷方村619614 (9.2)1 ( 0.2)2 (0.3)大生原村261 207 (79.3) 30 (1.5) 6 (2.3) 1 (0.4) 8 (3.0)昭和60年第V-52表潮来町計1311241 (94.7)31 ( 2.4)10 (0.8)1 (0.1)5 (0.4)潮来町316307 (97.2)津知村143130 (90.9)8 ( 5.6)1 (0.7)1 (0.7)延方村606598 (98.7)5 (0.8)大生原村246 206 (83.7) 23 ( 9.3) 5 (2.0) 4 (1.6)( )は構成比を示す.各年世界農林業センサスによるのである。売金額第一位の農家を部門別にみたも第V臼表は、旧町村別に農産物販であろう。ける相対的に高い構成比も理解される産生産額の変遷をみれば、基準年にお)の推移の中で第V日表における畜数も増加し、残澄養豚は駆逐される。まる。それとともに一当戸りの飼養頭て購入された濃厚飼料への依存度が高を画期として、飼料は自給飼料に代っしていたのである。昭和四十年あたり家副業としての養豚は、全県下に共通主流であった。現金収入をもたらす農舎において自給飼料による残誼養豚がV数も多く、農家の庭の一隅に設けた豚近飼養頭数が多いとはいっても、飼養戸現との結びつきが強かったわけである。料と密接に関連する畑作地帯の甘藷作代に全国一の実績を得ていた。当時は飼782