ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
に低い北部の津知地区と大生原地区では、工芸作物と養蚕とに依存していたことが注目されるであろう。水田単作地帯である南部地区農家の一戸平均耕地面積一・一ヘクタールに対し、北部地区では0・七ヘクタールと狭く、耕地は「水田と畑と混在しており、田の小規模を畑がカバーしている地帯である」(昭和四十九年三月『潮来農業振興地域整備計画書』)といわれる。しかし、第V回表についてみたとおり、工芸作物にしても養蚕にしても、発展の見通しは暗かったのであり、とりわけ旧津知旧大生原村、村において、稲作販売農家が九Oパーセントを越えるのは、農産物販売農家の減によるためである。平成二年の農家数二三O、専業農家四八で三・七パーセント、第二種農家一一八二で八六・三パーセント。度重なる生産調整にもかかわらず、稲作がこれだけの比重を占められた要因はどこにあるのか。そのつは、ライスセンターに代表される構造改善事業がもたらした巨大機械ではなく、耕うんから収穫、調整まで一貫する個人所有の農用機械である。いわく、動力耕うん機個人所有台数。昭和四十年における駆動型耕うん機二O台、索引型耕うん機八二三台うち五馬力未満二O四台。昭和四十五年二二五三台、所有農家一戸当り一・O六台、うち一O馬力以上変わる潮来地方一四九台。昭和五十年二二五七台、一台、うち一O馬力一戸当り一・一以上二四八台。昭和五十五年一四O二台、一戸当り一・一九台、うち一五馬力以上二七八台。昭和六十年一二七三台、一戸当り一・二三台、ぅち一五馬力以上四一二台。第5章いわく、動力田植機。昭和四十年、なし。昭和田十五年二台。昭和五十年一八二台。昭和五十五年八二二台。昭和六十年八六八台。いわく、自脱型コンバイン。昭和四十年なし。昭和四十五年、稲麦用動力刈取機六四台。昭和五十年四二七台。昭和五十五年七六九台。昭和六十年七五九台。いわく、米麦用動力乾燥機。昭和四十年なし。昭和四十五年九三二台。昭和五十年一O六一台。昭和五十五年一O四九台。昭和六十年九三五台。煩雑さを厭わず、あえて掲げた右の数字は、世界農村業センサスの結果から、潮来町の数字を拾ったものである。耕うん機から乾燥機まで、個人所有の農機具の台数と大型化が跡づけられるであろう。これら動力機械の導入に加えて、除草剤の開発あるいは施肥技術の高度化にみられる省力栽培技術の確立とあいまって、水稲栽培の省力化をもたらし、稲作における兼業労働を可能にしたとみたい。しかし、農業機械の導入は、即水稲生産費を押しあげる結果となる。町域における米の生産費調査を見ることはできなかったが、)れだけの農機具をもってしては、機械の購入費に加えて、その償却費と維持修繕費とに相当額が充当されねばならないであろう。農業固定資本と磨滅償却費部分が増大することは、農業固定資本部分をそれだけ大きくすることである。加えて肥料、除草剤、農薬などの流動資本が増加することにより、物的生産手段は高額化する。}れに見合う労賃部分は、雇用労働ではなく、家族労働によって充当されているのであり、農業経営の基調は、著るしく均衡を欠くものとなっているはずである。農家経営にとって、農業粗収益の増大にもかかわらず、農業所得が低く押さえられるのはこのためである。第Vi臼表にみられる生産農業所得率の逓減傾向がこれを反映しているであろう。数字は昭和四十九年以降について得られたにすぎないが、農機具の普及と大型化にともなって、生産農業所得783