ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第三節戦後の交通と潮来地方霞ヶ浦鉄道計画が挫折した後も、潮来地方では鉄道誘致鹿島線建設へのあゆみへの動きは絶えることなく続いた。千葉県側では、政友会派と憲政会派の政争の具として翻弄されつつ、ついに昭和六年(一九三一)に成回線が佐原から笹川まで延長され、ついで八年三月には松岸まで開通して総武本線と接続し、銚子・佐原聞が鉄道で結ばれた。潮来地方と同じく、舟運や路線パスに依存していた小見川や笹川などの地方都市が鉄道の思恵に浴することになったのである。また、昭和七年七月には総武線両国・お茶の水間に懸案の高架線が電化開通し、総武線経由で東京市中心部へ行く場合の利便性が飛躍的に高まった。このような情勢の中で、昭和七年三月頃には、潮来地方でも成回線と常磐線を結ぶ「水郷鉄道」の敷設を求める運動が繰り広げられた。ときは、茨城・千葉両県関係者が協議会を開催し、鉄道省に水郷鉄道建設を働きかけたが、実現には至らなかった。ついで、終戦直後の昭和十年(一九四五)十一月には、鹿島参宮鉄道を玉造から潮来方面へ延長させようという運動が潮来町で起こった。また翌年八月には、行方郡町村変わる潮来地方長会で玉造・潮来聞に、鉄道に代わるものとして、鉄道省営パス(のちの国鉄パス・JRパス)を運行させるよう検討している。)の運動は翌年には佐原・鉾田問、佐原・鹿島聞及び繁昌・潮来聞にも、鉄道省営パスを運行させるようにと目標を拡大している。しかし、既存のパス路線第5章を買収して鉄道省営パス路線が開設されたのは、土浦・江戸崎・佐原間にとどまり、潮来地方ではパス路線の省営化は行われなかった(『関東鉄道株式会社七十年史』)。一方、戦後復興の進展とともに、圏内観光事業も本格的に再開し、水郷観光も復活した。まず昭和二十九年に国鉄(当時)常磐線、成田線と総武本線直通の「銀鱗号」と、総武本線、成回線直通で新宿発銚子行きのコ房総の休日」号が運転され、同三十三年には成回線に気動車が導入された(『佐原市史』)。ついで同三十六年十月には準急「総武」号が新宿・両国と佐原の聞に運転されるようになった。準急とは同一鉄道管理局内の路線で運行される、比較的距離の短い急行列車をいう。東京方面からの観光客は、戦前と同様、佐原駅からパスや遊覧船で潮来地方へ繰り出したのである。}れは、観光客には旅情溢れる水郷の旅を演出するものであったが、潮来地方の住民にとっては、ますます陸の孤島との感を深めるにすぎなかった。こうして再び潮来地方に、本格的な鉄道路線の建設を待望する機運が生じた。潮来地方の輿望を担う鹿島線建設構想である。その起源は、昭の和二十八年にさかのぼる。}の年八月、水戸・佐原間の鉄道敷設構想が浮上した。これは水戸から鉾田・鹿島・潮来を経て佐原に至る路線で、現在のJR鹿島線及び第三セクターによる鹿島鉄道につながるもので、茨城・千葉両県関係者による期成同盟も結成された。関係者の根強い運動の結果、昭和三十九年に、ようやく国鉄鹿島線(佐原・水戸間)として事業計画線から着工線へ格上げされた。同線は国鉄成回線香取駅から分岐して、潮来市街、延方を経て鹿島町の中心部にいたるもので、計画ではさらに鹿島郡の台地上を北上し、鉾田、大洗を経て水戸駅に至るというものであった。また鹿島神宮駅からは当時計画中の鹿島港周辺に向けて臨港鉄道が南下する予定であった。香取駅から鹿島神宮駅にいたる区聞は開業当初から電化され、利根川、常陸利根川や北浦に長大な鉄道橋785