ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代採取に求めていた縄文人は、気候の変化、動植物の乱獲、人口の増加などにより、生活基擦のバランスが崩れ、領域内での生活ができなくなった時、領域外にも新しい土地を求めて移動して行かなければならなかっEたであろう。縄文時代の住いは、各時期によって、形、構造が変化住まいと家族する。このことは、生活環境の変化と、家族構成の変化によるものと思われる。旧石器時代、縄文時代早期前半頃は、焚火をした跡やファイヤ1ピットといわれる、穴の中に火を燃した跡が見られるだけで、形のある住いは見られない。}れは、仮設テントのようものが使われていたと考えられ、非常に短い期間だけ営んでいたようである。利根町花輪台貝塚では、半地下の竪穴式住居がつくられ、このころから、住居の規模も家族が住むために必要な面積が確保され、ある一定期間の定着が始まったようである。構造は早期が床面周辺の壁の内側に沿って垂木尻、すなわち屋根を支える材の下端をそなえ付けて、垂木だけで屋根を構成するものと、床面中央に一本の住か、二本または一二本の柱を上方で交差させて屋頂の短い棟を支えるものとがある。前期の方形住居は、前半では四ないし六本の主柱をつかい、壁柱が壁穴の壁に沿って密接にならぶ。後半になると、側壁に接して立てられていた主柱は壁から離れて屋根は早期と同じように地上葺き降ろしとなり、寄棟あるいは入母屋形式になる。中期になると、前期後半から現れる円形住居が主流となり、四i六本の主柱からなる地上葺き降ろしの建物になる。中期末頃には、円形の住居で主柱を立てない無主住式ゃ、二主柱、四主柱になり壁支柱が復活している。後・晩期になると平均的には小型になり、無主柱式が多くなり、二主柱式、四主柱式のものが主流となるが、関東地方では、逆に大型化する傾向をもつ。68時期によって変化した住居の平面形、すなわち居住空間は、各期とも大小はあるものの平均的な面積をもっている。これまでの調査で確認された前期の住居面積は、最低で六平方メートル前後、最高で六三平方メートル前後、平均で約二二平方メートルである。中期に入って円形住居になると、最低七平方メートル、最高五0平方メートル、平均二一平方メートルで、形は変っても居住面積はあまり変化がない。ちなみに、v」の後の後・晩期を見ると、平均面積約一六平方メートルで、地域によっては平均五0平方メートルのものが見られる。竪穴式住居の面積は、各時期を通じてあまり変化がないことがわかる。これらの竪穴住居にいったい何人の人が住むことができたかそれではを考えると、住居内には炉や貯蔵場所、出入口、住等の施設があり、居住空間には含まれない。}れを計算式にすると隅河田部前皆同岡田郵H澗舟同車となり、一人が占める面積はこれまでの調査例から三平方メートルとしていることから、回南拍車I1ωH洞院〉蝉となる。最近の調査によると、秋田県能代市遺跡では、長さがコ二メートル、幅八・八メートル、面積二七三平方メートルの住居跡が見られ、祭儀場ないしは共同作業場としている。また、鹿嶋市厨台遺跡などでは、掘立柱建物跡がみられる。)れまで、掘立住建物跡は、弥生時代に入ってから、倉庫などに建てられたとしているが、長野県阿久遺跡では、縄文時代前期にすでにみられ、比較的早い時期に建てられていたようである。建物の性格は明らかではないが、竪穴住居群に混じってみられることか