ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第四節水郷固定公園昭和三十年(一九五五)六月十一日、一町三か村が合併し国立公園指定への道て発足した新生潮来町誕生の祝賀式典が挙行された。たらしい町は、}の年二月十一日に発足していたのであるから、祝賀式を恒例のアヤメ祭りに合わせたことはいうまでもない。祝賀式を報じた新聞に、新荘直潔観光課長が、「あやめの潮来」と題した一文を寄せている。「北利根川の清流に歓楽境潮来の灯がゆれ、真菰の中の花あやめが一入風情を添えて、対岸の加藤州に聾え立つポプラにかかる白雲を追いながら、水郷情緒を満喫しての行楽に観光客満員の盛況」(「いはらき」新聞昭和三十年六月十一日)であるという。江戸の戯作者にうたわれた「潮来ぶし」によって名を高められた潮来は、奥州から江戸への水路の要津であったこともあり、元禄年間には貸座敷九軒、四Oを越す引手茶屋を擁して、「あやめの潮来として天下にその名を得るに至った次第」(同)といわれる。昭和戦前期まで、水郷潮来は全国屈指の観光地ではあったが、戦争によって、観光地は荒廃する。「観光地の水郷は何といっても鹿島神宮、変わる潮来地方香取神宮のご神徳に負う処が多かったと思うのであります。終戦後は参拝客の客種も減り若干の変化もありこの頃は又ポツポツ参拝客も見えるようになりました。潮来の観光事業を如何に繁栄させて行くかということは大きな課題の一つ」(「いはらき」新聞昭和二十四年五月十六日)と当時第5章の水郷観光協会長藤岡鉱二郎は、食糧危機を脱け出して、戦後復興期に入り、観光業の再建に意欲を見せていた。しかし、旅館組合長中根昇によれば、「戦時中疎開児童のために荒されまして今日その補充に汲々としている」し、夜具などの資材の不足から、客の最大収容力は五OO人、最盛期の五分の一にとどまるという。しかもトレードマークのあやめも、「戦争のために一坪の地も食糧増産に使われるべきであるとのことで、あやめ園は米作田と化してしまった」(菅谷保「潮来あやめ園の設立に尽しあた人々」『ふるさと潮来』第一O輯)といわれる。しかし、昭和二十五年から「アヤメ園」復興の動きが活発になり、V)の年「在京の成功者よりの寄附によって:::一万三千円の寄附を受け:ただちに明治神宮菖蒲園に花菖蒲の買付にかかり一株百円として百三十七株を購入し帰郷した」(同)のが、戦後の「アヤメ園」復興の第一歩であろう。以後年を逐ってアヤメを見る観光客は増加し、菅谷氏によれば、昭和二十九年のシーズンには、「松崎薬局からあやめ旅館前迄は人混みで歩くのにも骨折る程だった」ばかりか、ようやく空席を見つけた食堂で「待つこと一時間余り、やっと昼食にありついた」ということである。新生潮来町誕生の祝賀式当時、「観光客満員の盛況」と書かれたのも、誇張ではなかったのである。筑波、水郷地区の国立公園指定を求める陳情も、早くからなされていた。県の都市計画課観光係長が、昭和二十五年一月二十四日午後「厚生省国立公園部に計画課長を訪問筑波山水郷地区(茨城、千葉)の国立公園指定を陳情した」とあり、「これは筑波山を中心に置ヶ浦、北浦、鹿島神宮、潮来、印旗沼、佐原、香取神宮の水郷地区一帯ですでに昨年地元の期成同盟が国会衆議院に請願書を提出している」(「いはらき」新聞昭和二十五年一月二十五日)とある。公園計画の中味として「筑波山は家族向のレクリエイションパlク、利根川をはさんだ水郷地区は淡水魚の産地として親しまれ、789すでに霞ヶ浦の元予科練施設を改造して国際水上公