ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
アヤメのない水郷潮来などおよそ意味ない。潮来町では水田を買収して一千坪のアヤメ園をつくったが農地法違反の疑ありと県でこのほど調査した。この調査に立会った藤岡町長「米麦ばかりが農作物ではなくアヤメも農作物の一つである」と迷論卓説で応しゅう。県でも「アヤメは農作物であったか」と引あげた(「いはらき」新聞昭和三十一年四月十六日)さらに、観光業従事者の研修も怠ることがなかった。県下観光地のサービスの悪いことは天下に冠たる(?)ものだが、水郷潮来ではこんなことではしょうがないと十四、十五の両日同町福弥旅館でサービス講習会を開催した。この臼集ったのは旅館の経営者オカミはもとより女中さんから番頭さん、芸妓まで、全国観光連盟嘱託国際観光ホテル学校講師高橋保美先生を講師に接待の仕方から寝室への案内、衣服、食膳の扱い方から送迎方法などH国際水準Hで猛勉強。日本一サービスの悪い茨城県下でも一、二を争うサービスの悪い潮来をこれですっかり更正させようという町当局の親心だが、親心必ずしも子供に通ぜずいささか町当局もノイローゼ気味(「いはらき」新聞昭和三十一年十一月十八日)。変わる潮来地方国立公園指定に向けての地元の取組みは、ようやく昭和三十二年になって報いられることになった。}の年二月十五日に厚生省で聞かれた国立公園審議会で五候補地を「固定」公園にすることを内定した。五候補地とは、水郷、三河湾、北九州、南房、金剛生駒である。みられるとお第5章りこの五候補地は、大都市近郊であり、都市住民の行楽地としての役割を期待できた。ご)で指定を内定された水郷は、「千葉、茨城両県にまたがり大洗海岸、筑波団地、水郷団地、犬吠団地などを中心にした約二万一千ヘクタールの土地」(「いはらき」新聞昭和三十二年二月十六日)といわれる。しかし、水郷は県の陳情した国立公園ではなく、固定公園の指定を受けたのであった。わが国における国立公園要望の歴史は古く、明治二十七年(一八九四)に刊行された志賀重昂の『日本風景論』あたりまで湖ることができるであろう。そこまでたどることは、当面の課題ではないと思われるが、明治四十四年(一九一一)の帝国議会において、「日光を帝国公園となす請願」が採択されたのが、国立公園に対する国民的要望のはじめとみられる。以後昭和二年(一九二七)には民間に国立公園協会が創立され、昭和五年にはやっと内務省に国立公園調査会が設置された。その翌年、画期的というよりは、最初の文化立法ともくされる国立公園法が制定されたのである。法制化と指定とは同時に進行したのではなく、ほぽ三年がかりで全国的現地調査を行ない、昭和九年三月一六日に瀬戸内海、雲仙、霧島の三地域がはじめて指定され、その年の十二月四日には、阿寒、大雪山、日光、中部山岳、阿蘇の指定をみるのである。さらに十和田、富士箱根、吉野熊野が昭和十一年二月一日に指定される。以後、日本は戦争が激化し、国立公園にかかずらう余裕はなくなるのであるが、戦前期には、上記一二の国立公園が指定されたのである。戦後の指定は昭和二十一年にはじまる。戦争で荒廃した国土の中で、国民生活は必ずしも安定はしていなかったが、国が誇り得る大自然の風景を保護する必要が認められたためである。昭和三十四年までに伊勢志摩、支努洞爺など七地域が指定され、国立公園は全国で一九か所を数えるようになっていた。昭和三十年にはじまる戦後経済の高度成長は、791レジャー人口を急速に