ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代増加させ、昭和三十五年に年間の国立公園利用者数はほぼ一億人とされ、現予想では以後年間二Oパーセントずつ増加するものとされた。当然国立近公園を新しく指定する要望は高まってきた。しかし、国立公園は、わが国の風景を代表するに足る傑出した自然の景勝地でなければならず、V定の制約から免れることはできなかった。昭和三十四年時で一九地域を数えた国立公園が、列島改造を経て、一九九O年までに二八地域にしか増加していないことは、その証しであろう。そこで昭和二十五年以降、国立公園法の一部を改正することによって登場したのが、固定公園であった。国立公園に「準ずる」すぐれた自然の景勝地ということで、自然の質の点で国立公園に及ぶところではないが、優に全国的利用に耐えることができる風景地ということであろう。昭和二十五年には、琶琵湖(七月二十四日)、佐渡弥彦(七月二十七日)、耶馬日田英彦山(七月二十九日)の三公園が指定され、水郷が固定公園として内定した昭和三十二年には、すでに一四地域の固定公園が指定されていた。ちなみに平成二年現在の固定公園は五五地域にのぼり、数の上では高成長を遂げているのである。国立公園と固定公園とは、自然の景勝度に差があるばかりではない。国立公園は、施設および公園の維持管理がすべて国の費用でなされるのに反し、固定公園においては施設費も維持管理費も県費によってまかなわれ、それに国の補助が加わるものとされていた。水郷が固定公園指定の内定を得た昭和三十二年になぜか正式な指定はなされていない。同時期に内定した三河湾、金剛生駒は翌年四月十日に、南房総は八月一日に指定されている。そして水郷が全国二O番目の固定公園として指定されるのは、昭和三十四年三月三日であった。「水郷固定公園本決り二月三日に正式指定。自然公園792水郷固定公園の誕生審議会で答申」として新聞が報じたのは、昭和三十四年二月二十六日であった。二月二十五日に自然公園審議会は総会を聞き、厚生大臣から諮問された水郷固定公園の指定について審議した結果、指定を答申した。厚生省では答申にもとづいて一二月三日に指定することにした(「いはらき」新聞昭和三十四年二月二十六日)。国立公園の指定陳情から一O年を経て、やっと固定公園に指定されたのであるが、その区域はかなり広い。新聞はつぎのようにいう。水郷固定公園に指定された区域は茨城県の土浦市、新治郡出島村、稲敷郡阿見町、同美浦村、同桜川村、同東村、行方郡牛堀町、同麻生町、同玉造町、同潮来町、鹿島郡鹿島町、同神栖町、波崎町の各一部と千葉県の佐原市、銚子市、香取郡小見川町、同東庄町の各一部からなり霞ヶ浦、北浦(一部)、与田浦、利根川下流を含む湖沼、河川地帯の古来H水郷Hと呼ばれている本邦遺跡湖の代表的地域と銚子半島の先端、犬吠岬一帯の地域で、全面積は二万五千三百十四ヘクタール(茨城県二万七百ヘクタール、千葉県四千六百へクタ1ル)である。河川、湖沼地帯にはヨシマコモ、ガマ、スイレンなど水生植物の群落に富み、鹿島神宮境内の温暖性樹種の混交する天然杉、香取神宮境内林は特筆すべきもので、また神/池など水郷地域にはカモ、号、〆、ノ、.シギなどの渡来が多く、佐原市の砂場、ガン、向州一帯は天然記念物HホタルエピHの生息地として知られている。文化面では香取、鹿島両神宮に重要文化財、国宝が多く、潮来の長勝寺には鎌倉時代に建立された国宝の古鐘、土木工学上知られた横利根|佐原問門などがある(「いはらき」新聞昭和三十四年二月二十六日)。