ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

町の観光開発事業として特筆されるであろう。誕生のいきさつを「水と緑の町潮来」はつぎのようにいっている。この前川十二橋めぐりが誕生したきっかけは、四十六年の前川水門工事にあります。霞ヶ浦開発事業によるこの工事のために、古くから水郷潮来のシンボルとして親しまれて来た水雲橋が姿を消すことになったのです。」れを惜しんだ町が、水雲橋再建にのり出し観光施設整備再建事業を展開しました。五十二ヰ五月、鉄骨アlチ型二重橋の姿で誕生した新水雲橋は、全国でも珍しい観光歩道橋。旧水雲橋の観光的長所を生かしながら、独創的な設計によって生まれ変わりました。以来、新しい橋が次々とかけられ、新名所十二橋めぐりが生まれたのです。そして、五十九年には、薄れゆく水郷情緒の復活を求めて立ち上った青年有志の献身的な努力により、ろこぎ船が遠来の客はもとより地元の人たちにも人気をはくすことになったのです。町の観光開発ということであれば、昭和田十三年十二月に造成された町営あやめ園「浅間下あやめ園」も挙げることができる。固定公園指定前の昭和三十一年六月一日開園し、当時の鹿島参宮鉄道が管理、運営していた前川あやめ園を上回る規模であった。前川あやめ園は、昭和五十一年四月から町が管理運営にあたっている。変わる潮来地方アヤメと十二橋めぐりこそは、観光客の二大人気商品であり、〆E F』守、AlLJ' u,ヵって入込観光客は五、六月に集中する。総じて県内の観光地はシーズンが短期間に集中する傾向が強いので、水郷固定公園だけが特別なわけで+Am乍&円。iyLいま大まかに潮来町の入込観光客の状況をみると、昭和四十八第5章年に一五二万人余、四十九年は国民体育大会が開催された影響か、二万五六六一人と伸び、五O年には一四六万五五八九人と、一五O万人台を下回る。以後の一O年は五十二年の一四五万人余を除き、二01一二O万人台をくり返す。観光客の気まぐれは、減少傾向とか増加傾向とか一概にいえない凹凸をみせるのであるが、前川十二橋めぐりが誕生した昭和五十三年の入込観光客は一一三万五OOO人余と落込み、青年有志の献身な努力に感謝した昭和五十九年には一O五万五OOO人余と一OO万人台を割りこむ直前まで減少していた。しかし昭和六O年以降は増勢に転じ六十三年一八五万七六OO人、平成元年一九七万四八OO人と、二OO万人の大台に乗せようというところまできた。昭和四十八年の石油ショックを画期として、従来の年を逐って増大傾向を示した国民の観光需要は減退傾向を示し、しばらく低迷の期聞が続くことは、右の入込観光客数によってみても明らかである。昭和五十年代の観光は広域ル1ト観光の時代に入り、各観光地の関連性が重視されるようになった。観光客の五割が五、六月のあやめの季節に集中する状況では、広域化、多様化する観光需要に応えることが困難となる。昭和五十七年に策定された「潮来町総合計画」では、ワンシーズン型観光地から四季型観光地への変身をとげるための課題をつぎのように要約してL、b O51観光産業は総合的産業である。本町の観光を四季型観光へと発展させるためには、まちぐるみの観光振興体制が必要とされる。水郷観光の関連施設をより整備するとともに、あやめシーズン以外の新しい観光拠点地区の建設を考える必要がある。また、特産物の利用、開発を観光客に心から満足してもらうためのマナl、人的サービス向上等の受入れ条件の整備が必要である。-'-/\総合的産業とはいうものの、観光産業の中核は旅館、ホテル業である。観光客のうちの宿泊客は、年によりぱらつきがあるが、入込客数の二O795