ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第五節教育環境の整備高度経済成長の時代にあたる昭和四十年代になる小学校教育の展開と、財政的にも余裕があったため、つぎつぎと小学校の新築や各種の新しい施設が作られていった。また鹿島開発にともなう都市計画事業ゃ、交通網の発達を背景として、小学校の統廃合が進められていった。潮来地区においては、潮来小学校が特に危険な校舎となっていたために、潮来小学校の新築事業が進められた。当時の潮来町には分校を含めて八つの小学校があったが、これらの小学校が保有する危険校舎の総計は三O七三平方メートルであった。そのうちの約六割にあたる一八四八平方メートルを潮来小学校が保有していたのである。新しい校舎は鉄筋コンクリート造三階建てで、普通教室一二室、特別教室五室、管理諸室一一室からなるものであった。建具についても従来使用されていた鉄製建具(サッシュ)をアルミ製建具に改め、高低分離の原則を採用して一、二年生の低学年児童と、三年生以上の高学年児童との生活圏を分離する}とにより、のびのびと学校生活が送れるように配慮された(「広報いた変わる潮来地方こ」第四O号)。また潮来小学校十番分校は、昭和四十四年八月に廃校となり、児童は九月一日から潮来小学校へスクールパスで通学することになった。建設省が実施した常陸利根川の拡幅事業の進行にともなって、川幅が従来の第5章二倍にあたる約二00メートルに拡大された。}の工事により十番分校は校地の約半分が堤塘敷として国の買収を受けた。また十四番地区の唯一の交通機関であった町営渡船も、拡幅工事の影響により廃止のやむなきにいたった。}のため潮来町では、昭和四十三年九月二日から応急措置として、十番分校と十四番地区から児童をスクールパスで、潮来小学校へ通学させるようにしたのである。)の時点では、十四番地区の児童は以後永久に潮来小学校へ通学させ、十番地区については学校移転敷地を探して移転することとし、それまでの聞は本校で分校の学級編成のまま授業を継続することとした。しかし学校移転の案は結局立ち消えとなり、昭和四十四年八月四日の潮来町議会臨時会において、同年八月三十一日付けで十番分校を廃止し、九月一日から潮来小学校へ吸収統合する}とが決定された。潮来小学校の校舎建設工事は昭和四十五年三月に完成したが、}れにより潮来小学校大洲分校が廃校となり、四月の新学期から統合された。このようにして潮来地区では昭和四十五年度から小学校が一つという体川判川F』hl品つ- -。dnlffその後浪逆地区土地区画整理事業が完成し、新しい住宅地及び商業地区として日の出地区が造成されると、昭和五十七年四月一日に日の出小学校が設立された。日の出小学校は日の出地区のほぼ中央に位置する日の出三丁目へ建設され、着々と教育環境が整備されていった。日の出小学校では校内環境美化事業に特に力を入れ、各クラス二名の栽培委員と、PTAで組織された環境整備委員が中心になって、学校ぐるみの活動を展開した。日の出地区へ入居した家庭の児童のなかには、土いじりを経験したことのない人もおり、}れらの児童にとっては花壇作りが新しい経験ともなった。)の事業は茨城県や茨城新聞社などが主催する「花とほうきの環境美化コンクール」において高く評価され、昭和五十九年には茨城県教育長賞、昭和六十年には茨城県知事賞を獲得した。797