ブックタイトル潮来町史

ページ
810/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている810ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

代現近Vまた日の出小学校の開校により、スクールパスで潮来小学校へ通学す798ることを余儀なくされていた十番地区と、遠く離れた潮来小学校へ通学していた大洲地区が、日の出小学校の学区へ編入された。津知地区においては、二つあった小学校が統合されていった。津知地区においては辻にあった津知第一小学校と、築地にあった津知第二小学校がそれぞれ特色ある教育を行ってきたが、児童数の増加や校舎の老朽化、敷地の狭随化が進むなかで、昭和四十年代の後半になると地元有志のなかから施設の問題が語られるようになった。昭和田十七年になると「学校問題を語る会」が開催され、小学校の統合問題が議題にのぼった。日の出小学校学校統合の動きは、明治時代や昭和初期の時代にもあったが、通学距離などの問題が足かせとなって実現できなかった懸案であった。昭和四十八年には統合促進期成同盟会が発足し、校舎建設敷地についても具体的に語られるようになっていった。道路事情や社会の大きな変化のなかで第V-84図地区の人々は統合への動きに賛同を示しはじめ、そうした動きを背景にして潮来町議会は昭和四十九年三月に用地確保の件、五十一年二月には統合に関する件、同年十二月には校舎建設の件などについて議決を行い、統合実現に向けて進んでいった。統合小学校は辻八二九番地の一の、三万八五00平方メートルの敷地へ建設されることになり、昭和五十二年一月十四日に起工式が行われた。明治時代や昭和初期の時代においては、統合小学校の話が持ち上がると街道浴いに位置する辻地区へ作ることが提案され、築地地区の人びとが反対するという形があったのであるが、今回は築地地区の人々が最終的には納得した形で統合小学校が建設されたのである。統合校舎は昭和五十二年中に完成し、同年十二月十一日に日の出地区へ建設された中央公民館や潮来浄化センターなどとの合同竣工式が盛大に催された。そして