ブックタイトル潮来町史
- ページ
- 813/1018
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている813ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている813ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
潮来町史
第5章%10進学率年には新しい中学校で一緒変わる潮来地方Lー」H百和50年卒業年]昭和協年出典・各年度'中学校卒業生の卒業後の進路状況調査』より作成.事の進行により昭和三十六学習を続けた。校舎建築工第V-88図知教場として従来の校舎で]昭和室第V-53表第一中学校の潮来教場、棒できていないために、潮来高校進学率の推移校となった。しかし校舎は校は統合して潮来第一中学成立した。同年四月から両高校進学率の推移校を設置することで妥協が卒業年月潮来町行方郡茨城県全国〕昭和白年昭和40年3月56.9 48.6 59.9 70.7昭和41年3月60.9 54.8 62.8 72.3昭和42年3月61.7 54 64.2 74.5昭和43年3月64.1 54.4 67 76.8昭和44年3月60.8 57.8 70.3 79.4昭和45年3月70.1 59.9 73.3 82.1昭和46年3月74.2 66 76.8 85昭和47年3月74.8 70.2 80.6 87.2昭和48年3月85 76.4 84.6 89.4昭和49年3月86.1 76.8 86 90.8昭和50年3月87.2 82.1 88.6 91.9昭和51年3月89.3 84.5 90.2 92.6昭和52年3月86.7 85.7 91.5 93.1昭和53年3月89.6 87.2 92.2 93.5昭和54年3月91.7 88.1 93.4 94昭和55年3月88.6 89.3 93.6 94.2昭和56年3月95.1 91.4 94.5 94.3昭和57年3月94.2 91.9 94.4 94.3昭和58年3月91.4 92.4 94.1 94出典各年度rl'学校生徒の卒業後の進路状況調査』より作成に隣接する潮来地区へ中学多いが、}こでは津知地区地の問題で紛糾する場合が学校で、学ぶことができるようになった。昭和四十三年には体育館が、タールと決定した。通学距離などの関係で、学校の新設にあたっては敷中学生が、延方に新築された鉄筋コンクリート造三階建ての潮来第二中潮来と津知の統合中学校の敷地としては、潮来町五丁目天王山の三へク昭和三十八年四月に第一期工事が完成し、昭和三十八年度からすべての潮来中学校と津知中学校、延方中学校と大生原中学校であった。そしてまでは潮来第一中学校と同様に、従来の校舎で勉強に励むことになった。つあった中学校を二つに統合することが決定された。統合の組合わせは、容することになった。同年四月には潮来第二中学校となり、新校舎完成統合への具体的な動きとしては、昭和三十五年二月十七日に、当時四タールを買収し、延方中学校および徳島分校、大生原中学校の生徒を収茨城県の教育行政の方針に沿ったものであった。結論が出された。学校敷地を延方の鹿島吉田神社隣の畑など二・六へクときに作成した新町村建設計画書に折り込まれていたことであり、国や延方中学校と大生原中学校の統合問題は、昭和三十七年三月になってと、統合中学校設立の動きが急速に進んだ。}れは町村合併を実施する三階建ての新校舎が建設された。中学校は、昭和三十一年に町村合併が行われて新しい潮来町が成立するの後建物の老朽化が進んだため、昭和五十六年二月に鉄筋コンクリートくの困難を抱えながら教育活動を展開していた。プールが完成している。また昭和四十四年には体育館が建設された。そ中学校教育の発展た新制中学校では教育内容、財政、人材面など多和三十八年二月に第三期工事が完成した。〕のなかで昭和三十七年には学校教育法の施行により昭和二十二年に設置されに学習でさることになった。中学校の建設は三期に分けて施工され、昭801