ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
昭和四十四年にはプールが完成した。校舎については、潮来第一中学校と同様に昭和五十五年に取り壊し、鉄筋コンクリート三階建ての新校舎が建設された。以上述べてきたように、潮来町においては一つの統合中学校が設置され、整備された教育環境のもとで教育活動が展開されていった。中学校教育においては、昭和四十年代以後になると所得水準の向上ゃ、高学歴志向などを主な背景として、大学や高等学校への進学希望者が急速に増加し、中学校はだんだん高等学校進学のための、織烈な競争の場となっ「』、っ-事、041、hvJJ第Vl臼表および第Vlm図は、昭和四十年以後における高等学校への進学率をまとめたものである。)の表をみると、行方郡全域における進学率があまり高くなかった昭和田十年代初頭から、潮来町の高校進学率が高かったことがまず読み取れる。昭和四十年から四十七年にかけて行方郡の進学率は茨城県全体と比較して毎年一Oパーセント以上低かったが、潮来町と茨城県を比較すると、その差はこないし五パーセントであった。昭和四十八年から昭和五十五年にかけての行方郡の進学率は、茨城県と比較して五ないし六パーセントの差があったが、潮来町と茨城県の差は一ないし五パーセントであり、昭和四十八年と四十九年においては茨変わる潮来地方城県の平均を上回る成績を残している。昭和五十六年は、茨城県の高校進学率が全国平均をはじめて上回った年であるが」の年に潮来町では茨城県を上回る九五パーセント以上の進学率を記録した。表に示した一九年間のうち、潮来町は行方郡で進学率が一番になった年が、回第5章のぼっている。行方郡には麻生高校と潮来高校に加えて、昭和三十八年に玉造工業高等学校が設立されているが、潮来町の場合は地元に伝統のある高等学校があるということが、高い高校進学率に結びついたことは否定できない。また江戸時代以来形成されてきた、商業の町としての都市的機能を持っていたことや、鹿島開発の波が打ち寄せてきた時に、潮来町が鹿島郡から行方郡への玄関に位置するという、好条件も高校進学率向上に大きく作用していたといえよう。昭和五十年代の末からは、若干のばらつきはあるものの全国的に全員入学に近いところまで進学率が上昇し、進学率の大きな地域的差異は認められなくなってきている。高校進学のための競争は激しさを加えていったが、その一方では登校拒否や校内暴力などの問題が昭和五十年代から発生し始めていた。中学校では教科学習を推進する一方で、スポーツを奨励しながら部活動を熱心に展開していたが、偏差値で輪切りにされて志望する高等学校を決定する基本的枠組みは、合理的な手段として認識されていた。偏差値の持つある種の合理性が、人間として生きていこうとする時に、生徒の心に育まれなければならない精神的に重要なものの健全な成長を、阻害する面が出てきたのである。昭和六十二年十月に発行された「広報いたこ」第一八五号は、「競争原理の激しさを子供たちの生活にみる」というタイトルで、アンケート調査の結果を紹介している。ご}では調査対象となった中学生の八四パ1セント、女子においては全員が塾通いをしていることなどが紹介されているが、この記事の冒頭に記されている総論の部分を次に引用しておきたい。依然として根強い学歴信仰。受験戦争や偏差値教育など偏った修学構造を生んでおり、子供たちは学齢初時から競争原理をしいられ803