ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

した。宮内は同年九月に行われた7ルチャン杯全日本選抜柔道大会の個人戦にも出場し、優勝の栄冠を獲得している。普通科、商業科、家庭科のほかに、別科や定時制課程を潮来高等学校の発展持つ潮来高等学校は順調な歩みを続けてきた。しかし昭和三十三年二月十三日に火災が発生し、校舎三棟、の教室を含む約三四O坪を焼失するという、大惨事に遭遇したのである。この火災により教育活動は大打撃を受けた。町民は茨城県へはたらきかけながら、校舎を建築して正常な状態を回復するために懸命の努力を続け、昭和三十四年には鉄筋コンクリート造二階建ての新しい校舎が完成した。しかしこの校舎は室数が一Oで総坪数約二八O坪であり、焼失面積と比較して小さなものであった。施設面の整備はこの後においても急務であった。劣悪な教育環境を改善することを目的として、昭和三十七年になると潮来高校施設整備促進期成同盟会が発足した。八月に準備を聞き、九月には期成同盟の常任委員会が、潮来高校の講堂で開催されている。しかし地元負担の問題もあって、施設整備事業は思うようには進展しなかった。この間、昭和三十七年度から定時制の募集を停止し、翌年には別科を募集停止とした。これにより別科は昭和三十九年三月で廃止、定時制は変わる潮来地方昭和四十年三月で廃止となったのである。新校舎の建設に関する動きは昭和三十九年になると本格化し、高田明潮来町長を会長とする県立潮来高校移転新築期成同盟会が結成された。新築移転する場所は、かつて延方郷校が建てられて潮来地方の文教の府第5章となっていた、延方地区の内田山を候補地として、地主の協力を要請することになった。その結果地主の協力が得られて、六万五五五二平方メートルにおよぶ敷地を買収することができた。このような潮来町の積極的な動きを前提にして、昭和四十一年度の県予算に潮来高校建築関係予算が計上された。」の年の七月から八月にかけて二か月間にわたり、自衛隊員による整地事業が実施された。稲野辺四作業隊長以下五O名の自衛隊員が、うだるような炎天下でブルドーザーなどを使って作業を続けたのである。}の当時は高等学校の建設現場の整地作業に自衛隊が協力することがよく行われたが、潮来高等学校の場合も同じ方式をとったのである。整地作業が終了すると、昭和四十二年四月から校舎の建築工事が始められ、約一年半の歳月を費やして昭和四十三年秋に校舎二棟が完成した。十一月五日には全校移転を行い、十一月八日から新校舎で授業が開始された。完成した新校舎は鉄筋コンクリート造三階建てで、本館が長さ九0メートル、付属校舎は長さが七二メートルという長大なものであった。本館(管理一般教室棟)には一階に管理関係の各室を置き、二階と三階には普通教室一八室が作られ、付属校舎(特別教室棟)には生物、化学、物理などの特別教室や商業科ゃ、家政科の特別教室などが設置された。特に商業実践室や家政科の調理室は県下一の設備を持っていた(「広報いたこ」第四七号)。このように、潮来高等学校では地元の人びとの厚い協力に支えられて、県下に誇る立派な校舎の建設をなしとげたのであった。その後もさまざまな施設が建設され、教育環境が整えられていった。昭和四十五年三月には、体育館兼講堂、格技室、図書館が新設され、同年七月には五0メートルの公認プールが、十二月にはトラックや野球場を含むグラウンドが完成した。また昭和四十九年の茨城国体の時には、潮来町を会場にして弓道競技が実施されたが、」の弓場場も昭和五十八年に潮来町から寄付を受けている。805