ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

運動場が作られ、新たに入居する家族の子弟が通う小学校として日の出小学校が新設された。日の出四丁目には、昭和五十年に水雲山潮音寺が建立され、慈母観音が杷られた。また日の出八丁目には、公共下水道浄化センター(潮来浄化センター)が建設された。用途地域の指定にあたっては、昭和四十八年に中心部に位置する日の出三丁目、四丁目、六丁目と七丁目は中央を通る道路沿いが、商業地域と近隣商業地域に指定され、その周辺部は第二種住居専用地域に指定された。また南部に位置する日の出五丁目と、西部に位置する日の出八丁目は第一種住居専用地域に指定され、中央通りに面する日の出二丁目は第二種住居専用地域に、日の出一丁目は第一種および第二種住居専用地域となった。日の出ニュ1タウンの土地区画整理事業は、昭和五十四年三月に完了した。この事業に関しては、浪逆土地区画整理組合の手で『新天地の創造』という写真で構成された記念誌が作られているが、その「あとがき」には万感の思いを込めて、次のように記されている。全国から選ばれて浪逆干拓に入植し食糧増産にはげんだ。あの広大な水田を埋立て大地にすると云ふ。血のにじむ努力、苦しみ、悲しみ、歓喜に一疾し、笑い、楽しかったあの場所、この場所、自転車で通ったあの道この道はもう無い。八年余に渡って撮った写真を編集変わる潮来地方し各行事を通して浪逆の全望から市街地形成まで、日の出町が祝福されて誕生した。)の地になにがあったのか後世への資料の一っとして過去を語り、話し、見聞する時の思い出の一頁であれば幸いです。第5章新しく誕生した日の出地区は、国鉄鹿島線の開通ゃ、東関東自動車道の開通などにより順調な発展を続け、潮来町の最も新しい面を代表する地域となっていった。浪逆地区に続いては、新内洲地区の開発が行われた。内洲地区のうち前川以西の地域は昭和初期から埋立てられて潮来観光の拠点として発展していたが、昭和四十五年に国鉄鹿島線が開通し、新内洲に潮来駅が設置されることになり、前川以東の地域が開発されていった。}の地域は昭和五十二年に「あやめ」という地名が新たに付けられ、国鉄鹿島線の西側があやめ一丁目、東側があやめ二丁目となった。昭和四十八年の用途地域指定においては、双方とも商業地域に指定され、潮来駅前商居街として賑わうようになっていった。前川沿いにはあやめ園や作られ、F)の地域が潮来観光の中心となり、新たな十二橋巡りのコlスが設置された。昭和五十三年三月には新内洲地区区画整理事業が完了した。また、潮来の西北部台地に位置する大塚野、荒久、山岸、膳棚山地区は、昭和三十五年に国道五一号線が東西に開通したため、大塚野を中心にして宅地が進んだ。昭和四十五年には大塚野地区土地区画整理事業の実施計画が作成され、公共施設の整備改善と宅地の利用増進がはかられ「」、っ、」O'1、vJ/この事業は平成二年三月に完了し、二Oヘクタールにおよぶ住宅地が作られた。延方地区では、鹿島線延方駅周辺地区が開発の対象となった。ここでも宮前を中心として延万駅周辺土地区画整理事業が行われ、宮前一丁目と宮前二丁目という新しい地名が作られた。}の地域は昭和四十八年の用途地域指定にあたっては、延方駅南部の地域を含めて第一種および第二種住居専用地域に指定され、土地区画整理事業は昭和五十四年に完成した。また、字大山には昭和四十二年から住宅団地造成事業が開始されTこ。この事業は鹿島臨海工業地帯へ進出した中心的な企業のひとつである住友金属の手によって実施され、昭和四十五年三月現在で一七八戸が809