ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代入居している。大山団地と称していたこの団地は、のちに北浦ケ丘団地現と命名された。潮来町における工業の発達はそれほど顕著ではないが、昭和四十八年近ヂ』ふみ、』iナイルス部品株式会社が進出していた辻地区の一部が、準工業地V域に指定された。以上、潮来町における都市開発事業についてみてきたが、内洲地区が商業地区として、日の出地区が住居地区と商業地区として、延方駅周辺と大塚野地区が住宅地区として開発が進められ、潮来町の新しい側面を代表することになったといえよう。土地区画整理事業を基礎とした都市開発事業が進公共的施設の建設められるなかで公共的な機関の新設と拡充も行われていった。まず潮来町役場新庁舎の建築がある。潮来町では昭和三十一年の合併時から旧潮来町役場を庁舎として使用してきたが、事務量の増大や建物の老朽化により不便さが目立つようになり、町民サービスの向上もままならなかった。)のような事態を改善するために、昭和四十一年度からの三か年継続事業として新庁舎建築が実施された。新庁舎の敷地は、辻地内の国道沿いの土地約三二OO平方メートルを買収して作られた。建設事業は順調に進み、昭和四十三年五月には鉄筋コンクリート三階建ての立派な新庁舎が完成した。)の年には国会で新しい都市計画法が制定され、潮来町では潮来町振興計画が策定されるなど、新庁舎建築事業は潮来町の新しい時代を画するに、ふさわしい出来事であった。医療や福祉関係においては、昭和四十五年三月に国保診療所の新築が行われた。この施設は旧北浦海軍航空隊の施設を町が借り受けて、主に大生原地区の医療機関として機能してきたものであった。診療所は病室、給食室、手術室、分娩室などからなる四七0平方メートルのもので、同810年四月から診療を開始した。昭和五十二年三月には大生に養護老人ホlム鹿行潮来荘が完成し、五月に開所した。}れは鹿行地方広域市町村圏事務組合が経営するものであり、鉄筋コンクリート平屋造の約二二00平方メートルの施設であった。入居対象者は、年齢が六五歳以上で家族のいない人、なんらかの理由で家族と同居できない人などであり、入居費用はほとんどが国費で賄われることになっていた。}れにつづいて昭和五十二年二月十五日には潮来福祉会館が誕生した。」の施設はもと潮来郵便局として使用されていたものであった。)の会館は、各種福祉団体の集会や研修会、グループ活動などの場を提供し、社会福祉事業の活発化に対応しようとするものであった。また昭和四十三年九月に、郵政省の加入者ホ1ムの誘致を決定した。これは郵政省の簡易保険郵便年金両事業のうち、加入者福祉施設の設置と運営を担当している、簡易保険郵便年金福祉事業団が行う事業であった。敷地は水原の台地へ約一O00平方メートルが確保され、鉄筋コンクリート造三階建の施設が、昭和四十五年に完成した。公民館の設置も順次行われていった。公民館活動は昭和二十代から積極的に行われるようになっていた。しかし施設や人的な面など、主」土品点、まな局面で不備な点があった。昭和四十二年五月に発行された「広報いたこ」第三六号には、「公民館とは」という記事がのせられているが、公民館活動の意義や目的を説明した後に、社会教育に関する施設、予算、人材のすべてが不足していることを嘆いている。その後昭和四十三年十一一月の町議会において「潮来町公民館設置管理に関する条例の全部を改正する条例」が可決され、公民館の名称と運営内容が改められた。の時の公民館の名称と、設置されていた場所は次のとおりである。いずれ