ブックタイトル潮来町史
- ページ
- 825/1018
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている825ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている825ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
潮来町史
ずです。それで、「おいしい水を」と望むのは虫がよすぎるのではないでしょうか。ほんとうにそれを望むなら:::考えたい。鹿島臨海工業地帯のベッドタウンとしての役割を下水道事業の展開期待され、土地区画整理事業を展開していた潮来町では、都市環境の整備をめざして下水道事業を同時並行的に推進していった。潮来町は、昭和四十六年度に下水道事業に関する基礎調査と基本計画を策定し、昭和四十七年に下水道事業認可申請を建設大臣に対して行い、同年十二月に事業の認可を受けた。昭和四十八年二月に潮来町建設課は、町民向けに「公共下水道事業の実施に当って」という説明文書を配付して事業の概要を伝え、同時に長期間にわたる大事業への協力を要請した。」の文書によると、事業計画の概要は次のようであった。当時の潮来町では、都市化が進むなかで各たれ流しの状態にあった。家庭や事業所から排出されるし尿や雑排水が、このため、カやハエの発生の原因になるなど衛生上の問題が生じるいっぼう、河川や湖の環境汚染の原因ともなっていた。これらの問題を解決するために、し尿や雑排水を地下に埋設した管を通じて終末処理場に集め、そこで衛生的に処理して川などへ放流する公共下水道事業の必要性が生じたのである。公共下水道事業は、都市計画法で市街化区域に指定されることが予想変わる潮来地方される約六三五ヘクタールを対象にして計画された。}れらの区域には、浪逆、潮来、辻、延方の四つの排水区を設けて汚水を集め、汚水の終末処理場は浪逆地区に設けることになった。下水の排除方式は分流式を採用して雨水と汚水を分割し、雨水は道路の側溝を通じて河川へ直接流し、第5章汚水のみを地下に埋設した汚水管を通じて終末処理場へ流すことにした。一般に下水道事業の実施にあたっては、終末処理場の敷地の確保が、ごみ処理場やし尿処理場の敷地確保とならんで、最も困難な問題であるといわれる。敷地が確保できずに、計画が進行しない市町村は当時いくつも存在した。しかし潮来町においては、敷地問題がスムーズに決着したのであった。それは昭和四十四年から土地区画整理事業を展開していた、浪逆土地区画整理組合が事業計画のなかに下水道事業を組み込み、終末処理場敷地を予定した上で処理水を常陸利根川へ放流することについて、建設省と協議ができていたことである。浪逆土地区画整理事業組合は、終末処理場の敷地を町へ提供し、町が無償で使用することに同意したのであった。町では、浪逆地区の終末処理場へ全町の汚水を集め、そこで集中処理ができることになった。事業は全体を三期に分けて実施することとしたが、昭和四十七年度から昭和五十三年度までの第一期においては、浪逆排水区全域と潮来排水区の一部(新内洲、内洲、上町、下町、浜町)の間渠工事と終末処理場の建設を予定した。第一期の総工費は約一四億七OOO万円を見込み、財源は国庫補助金約三億八OOO万円、借入金約二億九OOO万円、町費約二億円、浪逆土地区画整理組合特別負担金約二億五OOO万円、受益者負担金約三億五OOO万円などを予定した。昭和四十八年十月にオイル‘ンョックが襲い、日本の高度経済成長の時代は終わりを告げることになったが、下水道建設工事は昭和四十九年二月二十日に起工式が行われ、本格化していった。昭和五十二年八月には、日の出八丁目という新しい地名のついた場所に終末処理場(浄化センタl)が完成し、日の出地区の全域に供用を開始した。続いて昭和五十四年九月三十日には潮来中継ポンプ場が完成し、十月一日から旧潮来町地区への供用を開始することになった。潮来町では下水道建設事業と並行して、河川をきれいにする運動や下813